適切な言葉を回す

頑張ってくださいとか、

頑張りましょうとか、

もっと意識を高く持ちましょうとか、

いつも笑顔で明るく前向きにとか、

負けないでとか、

強く生きようとか。

 

それよりも私はただ

 

『どうしたの?』

 

と聞いてあげたい。

 

誰かのもとに間違った言葉が届いてしまう前に、私が少しでも正しく汲みとって先回りして、適切なひとことをぽつりと落としてあげられたらと思う。

 

そうやって、適切な言葉、ふさわしい言葉を一人ひとりが誰かのためにこの世で回していければ、少しはましになるだろうにね。

 

 

 

 

『天賦の才能』

もしも自分に天賦の才能なるものがあるとすれば、それは

『人間であろうとして引きとどまり続けている』

ということだろう。

このことについて他人から『それってどゆこと?』と、具体的な説明なり描写を求められても、私にはうまく応じられない。なぜって、それはあくまでも主観直観によって私ひとりのなかで感じられることだし、正直な気持ち、誰にも共感不可能かなと思っているから。

それよりも大切なことは、私という人間が【そんなふうにして】感じ考え行動し生きているという事実だ。そこには正解も不正解もない。私ひとりだけがそこにいる。私という者が、ただ人間でありたいだけという願いのもと、押したり引いたりつついてみたりを繰り返している。それがすべてだと思う。

よく考える。いや、ずっと昔から考えている。自分の詩がいつか、いつか誰かに届いて、その誰かが例えば自殺を思いとどまって、とりあえずそのときだけでも生存してくれたらいいな、と。

かといって私はその【読者】さんと積極的に交流を持つつもりは全くない。あくまでも私はひとりでいられることを願う。そもそも会話を交わすとか顔を合わせるということは、私にとってはもはや交流とは言えなくなった。

ぶっちゃけ、まあこれは怪しい言い方かもしれないけれど、魂でもって伝わってつながっていればそれがいちばんだと思っている。別に会わなくても。別に隣に立たなくても。人間というのは物理的な肉体を超えてこそ人間なんじゃないかなと思うから。

 

 

キェルケゴールの『ギーレライエ反省』

キェルケゴールの日記のなかでも最も有名な箇所のひとつ、『ギーレライエ反省』と呼ばれる部分を繰り返し繰り返し読んでいる。

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私はつい先日、英語版キェルケゴール日記集を中古購入したのだけど、いかんせんこちらは全集ということで分厚い&重い!

なので今はサボりにサボって、薄ーい縮約版のほうで読んでいる(※縮約版についてはこのブログの最後に情報を載せておきます)。

つくづく思う。

自分のような人間にとって、キェルケゴールのような人に出会うというのは、やはり(数十年めぐりめぐっての)必然だったのだなと。

私はコンセプトとか体系とか雛型というものがどうも好きになれない。イズム(主義)というのも好きになれない。

もちろん、大枠をつかんで物事を理解することは大切だし、そのためのざっくりとした定式化も大切。

けれど。

私が私として『生きていく』ために、その枠組みや形式、体系は真に価値あるものとして役立ってくれているだろうか?

いや。

むしろ枠組みのなかに安住して、枠組みのなか制度のなか一般見解のなかでダラけて、自分を丸ごと放棄している自分がありありと目に映るようだ。

枠組みが好きな人もいるだろう。定式に沿って生きているほうがムダがないのは確かだ。そういうスリムでスマートな生き方のほうが良いと思うなら、そのほうが『成熟した大人、立派な社会人』だと考えるなら、それはそれでいいと思う。

でも。

それは私じゃない。私の人生じゃない。

私は周囲の人間から何度となく『未熟だ』『ガチで疲れる、重い、うっとうしい』と批判され、バカにされ、見下され、笑われてきた。

これから先も、死ぬまでバカにされ続けるだろう。見下されるだろう。積み重ねてきた見えない努力を暴言暴力によって再び粉砕されもするだろう。

それでも、私は16、17の頃から、キェルケゴールのギーレライエ反省に書かれてあるようなことを考え続けてきた。そしていまだに答えや絶対的な道は見つかっていない。だからこそ、再び考え続けて深く重く悩み続けていくのだ。

未熟と言われようとガチでウザいと言われようと結構。むしろ、私の理想の生き方を言い当ててくれて、感謝している。なぜなら、私は死ぬまで、いや、死ぬそのときにすら、完成形にはなり得ないのだから、未熟であって当然なのだ。それに、私の人生はその人たちとは何の関わりもない。全くもって、関係がない。私はその人たちのために生きているわけじゃない、そんなこと、あるわけがない。

少なくとも私は、自分の人生の表面だけをさらって、死ぬときにそれで『いい人生でした』などと言い残すような、薄い浅い生き方だけはしたくない。苦悩、後悔、怨念、絶望、怒り。すべてを味わいすべてに混乱して生きていくほうが、どう考えたって私らしいのだから。

 

縮約版キェルケゴール日記集

The Soul of Kierkegaard

Selections from His Journals

Dover Publications

ISBN 0-486-42713-7

 

↓こちらは他出版社から出ている別ものですが、内容的には大差ないと思われます。上に紹介したものが検索でヒットしなかったので、代わりにご紹介させていただきます。

 

Papers and Journals: A Selection (Penguin Classics)

Papers and Journals: A Selection (Penguin Classics)

 

 

 

 

 

 

詩-165 現存の書

真に悲しみにうちひしがれる者の前では口を慎み、

彼らから君の内へと伝わる流れを知り、学べ。

けれども君の沈黙が、誤解や彼らの重荷にならないように。

 

金をむしり取る教会へは行くな、

君らの真心までもが絞り尽くされる。

瞬間、という、小さな小さな点の上で

ぐらつき、ふらつき、震え、弱り縮こまる、

君らの肉体までもが金槌で殴打される。

 

そのような場所へ這いつくばって行くくらいならば、

私のもとに来なさい。

君らの美しい、その垢だらけの体を

皺だらけ土埃まみれの顔を

笑うような真似だけは私は決してしない。

 

なぜなら私はかの聖人どもよりも弱く、汚く、遠く、狡猾で、希望を疑ったことがあるからだ、

だから私はかの聖人どもよりも強く、熱く、速く、重くもなれるのだ。

それは君らだって同じこと、

だから開始地点と開けた土地を再び求めて

私のもとに来るがいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

試し

解離性同一性障害により、男性人格として主語は『俺』を用いています。読みたくない方はスルーなさってください。)

 

ちょっと試してみたいことがある。

貧乏に見せかける。
そして今持ってるもののうち、何かを手放す。

これによって周囲の反応はどうなるか、自分のなかでどんな変化が起こるか。

自分に関しては、予測がつく。 

物理的にも心情的にも『捨てた』のであれば、そのぶん当然スペースが空くわけで、そこに何か新しいものが入ってくるのは確実だ。書籍なり食い物なり他人の思想なり自分のハナクソなり。

他人はどうだ。

故意に突如としてびんぼーになった、そんな俺の『外側』を見て、俺を蔑むだろうか。それとも変わらない?

そして最低限、物理的に多くを持たない俺を見て、かわいそうだとか本も読まずに頭が弱そうだとか、みすぼらしいとか、すっからかんだとか、どんなことを考えるだろうか。どんな発言を俺に向けるだろうか。

これまで以上にむごたらしい本音を見たいよね。本音、本心、人間の汚らしい部分。

なりたい自分になりつつあること

はてこれは不思議だなと思うことがある。

何だかんだ言いつつも、私という人間は、なりたい自分になりつつあるんだな、ということだ。

いつからそういう変化が始まったのかは、厳密には当然のことながらわからない。

ただ思うのは、

周囲から身体的・心理的虐待を長期間受け続けてきたことが、逆説的に自分を強固にしてきた。虐待被害によって解離性同一性障害を発症してしまったなかで、それでも本来の芯の部分だけは逆により一層強く守れたこと。特に、医療・福祉職員からの執拗な心理的虐待は、矛盾するけれど私という人間の根底を覆すどころか、より大きなものにしてくれたと思う。ただし、誰もそんな動物連中にはこれっぽっちも感謝していないけれど。

それから、人生のある地点においては、そのとき自分のいる場所や仕事の内容が自分にしっくりこないこともある。具体的に考えてみても、『私、この仕事向いてないかも』とか、『本当の自分はこんなんじゃない!』と思う人はこの世に大勢いるはずだ。でも、それでいいんじゃないかと思う。年単位で振り返ってみたときに、もしかすると、『あのときあの職場で働いていたから今の自分があるんだ』と思えるようになることだって、あるかもしれない。

私は20代の頃に、詩人になりたいと思った。それから17のときから漠然と、自分の存在理由っていったい何なんだろうかと思っていた。だからやっぱり私という人間は、哲学なり信仰なりちょっとした文学なりに道を求める者だったのだと思う。

ほんのわずかな期間だったけれど、以前の私は自分の書いた詩でごく少額のお金をいただいていた。詩を1本朗読して、1円、5円、500円。詩集を出版して、1冊1,000円。所詮はその程度のちっぽけな世界だったけれど、それでも自分のやりたいことで1円を稼げるというのは、誰にとっても嬉しいことだろうと思う。そのようにしてお金を得ることのできる人たちを、私はバカにしたりはできない。なぜって、それだけで尊敬の対象だから。有名か無名かなんてことは、関係がない。

今の私はやる気がなく、全くの無名だ。体のことがあり、外に出かけて人に会う意欲もない。それでいいと思う。それよりも、詩と哲学と信仰、この3つを今こうして自分のそばに置いていること、これが嬉しい。【夢が叶った】【なりたい自分になれている】という実感が、淡々とではあるが私のもとにやって来ている。

でも、自分というものは、いつだって見失うものだし、見失って良いのだとも思う。なぜならこの世のすべての『在』というものは、どんな記号をもってしても、完璧には説明しきれないだろうから。すべての在、存在というものは、記号を超越すると私は考えている。だから哲学というのは『超えられないものをそれでも言語を駆使して超えようとする前進運動』であり、本質を掴んだらそれでハイ終わり、ではいけないと思う。絶対に。

29、30歳の頃だったか、SNSで友達になったとあるアマチュアパンクロックバンドのお兄さんから、

『あなたは存在そのものがパンクロックだ』

と言われたことがある。

これにはちょっと、苦笑した。

賞賛されるのは素直に嬉しい。私だって気分のいいときは、『そうでしょうそうでしょう~、私すごいのよパンクなのよー』と、調子に乗ってみたい。

でも。

そのお兄さん、頭のてっぺんから爪先まで、ご自身の尊敬するミュージシャンの真似をなさっていたのですよ。髪型も、タトゥーも、ピアスも、歌詞の内容も、読む本も、言葉遣いも体制批判も、ほとんど何もかも。

こういう人に『あなたはパンクそのものだ』と言われても、説得力ないんだよね(苦笑)。

それから、『孤高のロックミュージシャン』という表現をよく目にしたり耳にしたりするけれど、これはタウトロギー(同語・類語反復)かなと思う。ロックミュージシャンは孤高だからロックミュージシャンなのであって、他者と仲良くリラックスしてつるんでいるロックミュージシャンはロックミュージシャンじゃない。それから、体制批判をしてみたところで、それは他のどこかの誰かだって(徒党を組んで)やっていることなわけだから、結局集団のなか大衆のなか、複数の人間のなかでやっていることなわけです。王室なんていらないとか、声高に過激に目に見える形で叫ぶことも、スタッズの沢山ついた革のジャケットを着ることも、パンクには程遠い。真の叫びとは、そうそう他人の耳に容易には聞こえないものだと私は思う。

それから私は、他人から『あなたってこういう人よね』とか『こういう人なんでしょ』と決めつけられたり質問されることが大嫌いなのだ。だから、たとえそれが褒め言葉であっても、『存在そのものがパンク』と言われるのは正直そんなにめっちゃくちゃ嬉しいことではない。

なぜって私の存在は言葉で定義しきれるものではないし、定義に用いられた言葉を常に超えていくものなのだから。

ダラダラわけのわからないことを書いてしまったけれど、今の今、この瞬間は、自分にとりあえず満足している。60点くらい。これでいいと、今は思う。