tête-à-tête 81

『おいしい』

エスター通り、ストラストヴィーチェ書店の真向かいにある、こぢんまりとした食堂。通りの往来を観察できる窓際のカウンター席に、シリルとリディアは隣り合って座っている。リディアは注文したハムサンドイッチをひとくちかじると、シリルのほうを見て噛み締めるように言った。

『うまいか?じゃあ俺も、』

シリルも同じように自分のハムサンドイッチをかじる。

『うん。うまい』

『でしょう?でもね、私がこれを食べておいしいって思える本当の理由はね、』

『うん?』

シリルは指についたバターと【当店の特製ソース】を舐めながらリディアのほうを見る。

リディアは静かに微笑んで言った。

『隣にこうして、あなたがいてくれるから。私にはそれだけでいいし、それがいちばんなの』

そしてリディアはもうひとくち、サンドイッチをかじった。

『ありがとう、』

シリルはリディアの髪をくしゃっと撫でる。そして体を自分のほうに向けるよう頼んだ。

『?どうしたの?』

リディアは不思議そうな顔をして、体の向きを変えてスツールに座り直す。するとシリルが両腕を大きく広げて、笑顔で言った。

『これはエロスと友愛のハグだ、受け取りたまえ、僕の女王』

リディアも大笑いをしてシリルに腕を伸ばし、ふたりでハグを交わす。シリルはリディアの頬に自分の頬を沿わせて言った。

『さあ、とうとうキミがイケメンに対面する時が来たぞ。今日の帰り道、もしキミがその目のなかにハートマークを埋め込んで浮かれ騒いでいた場合、姦通罪としてふたり分のサンドイッチとコーヒー代を僕の懐に戻していただこう。よろしいかね?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

tête-à-tête 80

1872年、春。スキャルケイル市内のヤンセン孤児院。シリルの部屋。リディアがシリルの目の前で、自分と父親とのあいだに起きていることをぶちまけたあと。ふたりはベッドの端に寄りかかり、膝を抱え、隣り合って床に座っている。

『ごめんなさい。ごめんなさい』

リディアは顔をうずめて謝罪した。涙がぽたぽた流れ落ちてくるのを必死に隠そうとするけれど、ぐっと息を止めて泣くまいとすればするほど、彼女の頬と耳が赤らんでくるのがシリルにははっきりと見て取れた。シリルはリディアの謝罪の言葉を遮った。

『なんで君が謝るんだよ、君は何も悪くないじゃないか』

リディアは首を横に振った。 

『私のせいでこんなに不快な気分にさせちゃって。こうして、私なんかがいるからダメなのよ。汚くて、出来損ないで』

『やめろよ何言ってんだよ』

リディアは真っ赤になった顔をゆっくりと上げた。涙で濡れた頬には、ウェーブのかかった赤茶色の髪が乱れてへばりついていた。シリルはためらいがちに彼女の髪に手を触れ、櫛ですくように静かに撫でた。リディアは微笑んだ。

『優しい人なんだね、あなたは。絵も描いてるの?』

リディアは床に立てかけられた、描きかけの油彩画に目をやる。シリルは小さな声で答えた。

『……たまにね……、確かな情報じゃあないんだけど、俺の父親、画家だったらしい』

『親譲りだね、きっと。お父さんお母さんとは、今でも会うこと、ある?』

『いや、』

今度はシリルがうつむき加減で目を反らした。

『俺もさ。何と言うか、その。2歳、3歳くらいの頃に、親父に暴力振るわれてたみたいなんだよね。はっきりとした記憶はないんだけど』

『じゃあ、ここには子どもの頃からずっと?』

シリルはうなずいた。そして冗談めかして言った。

『君が背中の傷のこと教えてくれたから、俺も話すよ。せっかく、親から【いただいた】贈り物だからさ。もう薄くて、見えないとは思う。暴力振るわれたんじゃなくて、ただのヤケドなんだけど、お袋も親父から暴力受けてたから、俺のこと病院へ連れて行ける精神状態じゃなかったらしくてさ』

そう言うと、シリルは右手親指全体にうっすらと広がる傷痕を、左手でなぞりながらリディアに示した。

リディアは黙って傷痕を見つめ、その後シリルに向き直ったかと思うと、それからまた床に目を落とした。そして再びシリルの目を見ると、静かに首を傾け、彼の左肩に頭をもたせかせた。

シリルも目をつむって、リディアの頭に自分の頭をこつんと合わせた。そしてふたりともそのまましばらくのあいだ、身じろぎひとつせず、静かに膝を抱えて座っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

tête-à-tête 79

リディアとシリルの自宅。教会から戻ってきたシリルは【白鳥さん、今日もよい子で】のメロディーに合わせて玄関ベルを鳴らす。これはリディアとふたりで決めたことで、リディアがひとりで家にいるときは、このメロディ以外のベル音には応対しなくていいということにしていた。

『おかえりなさい、』

出迎えたのはリディアだった。もう11時近くだったが、シリルの用意した朝食をとっている最中だったようで、パンの切れ端をくわえている。シリルは素早くパンをくすねてリディアに口づけると、パンをかじりながらミリタリーコートを脱ぐ。

『絵本、置いてきた?』

ふたりは細長い廊下を抜け、台所兼食堂の小さな部屋に入る。リディアはやかんの湯を沸かし直して、シリルに紅茶を淹れる。

『それがさ。教会へ行ってみたんだけども』

『うん?』

『俺、中に入れなかったよ。それで、引き返してきた』

リディアは紅茶の入ったカップをシリルに手渡すと、不思議そうな顔をしてたずねた。

『熱いから気をつけて。……入れなかったっていうのは、時間が早くてまだ開いてなかったってこと?』

シリルは首を横に振った。

『リディア、お前ずっとずっと昔にさ、俺に言ってくれたことがあったよな。……その、……私はキレイじゃないから、大聖堂の敷居はまたげませんって』

リディアは笑顔で言った。 

『汚い子って言ったのよ、私は』

シリルはその言葉を否定した。

『お前が汚いわけないだろ。そうじゃなくて、お前のその、敷居をまたげないって気持ちが、俺にも今回わかったってこと』

リディアは少し驚いたけれど、黙ってシリルの言葉を待った。シリルは自嘲気味に、悲しげな目をして話を続けた。

『暴力ってのはさ。引き継がれるもんだろ、親から子へとさ。だから、俺もこんなふうになっちまって、それであちこちであんなこと、こんなことをしてきてさ』

今度はリディアがシリルの言葉を打ち消す番だった。リディアはカップを持つシリルの手に、自分の手を重ねて言った。

『あなたがもし本当に【こんなふう】だったら、あなたは私のこと大切にしてくれてないし、私もとっくにあなたから逃げてるはずだよ、』

少し疲れた表情の浮かぶシリルの青い目を覗き込み、リディアは微笑んだ。

『いいじゃない、教会なんて行かなくても、行けなくても』

シリルはしばらく間をおいてから小さく溜め息をつくと、リディアの助言にうなずいた。

『そうだな。すまん、凹んじまって。ああそうそう、そういやまた来てるぜ、』

『?』

シリルはズボンの後ろポケットからマーティンの手紙を取り出して、手紙に書いてある古書店の名前と住所を確認した。

『イケメンからだよ。ああ、お前はまだ、直接会ったことはないか。マーカスがイケメンって呼んでる、例の俺の従兄弟』

『イケメンなの』

リディアはわざと気のある振りをする。

『お前もそこで反応するか。お前らこぞって俺に冷たいな。まあいい。従兄弟、……マーティンがさ、知り合いから古本屋を譲り受けることにしたらしいんだよ。それで、店の場所を教えてきてくれた。だからどうだ?お前も俺と一緒に古い絵本持って、あいつに会いに行ってみないか?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

tête-à-tête 78

ホワイト・ヘイヴン市内のリディアとシリルの家。午前10時。ひと晩中シリルを『寝ずの番』で見守ったリディアは、シリルの予想どおり深い眠りについている。シリルは1階の台所兼食堂に降り、テーブルの上にまとめておいた数冊の小さな絵本を手に取った。

それらの絵本は相当年季が入っていた。それでリディア、ハンナ、マークから事前に同意を得たうえで、どこかに寄贈するなり処分するなりして手放すことに決めていた。マーカスは他の3人ほどには絵本に興味がないらしく、小銃を磨きながら『いいんじゃないの』程度の回答をして、家の裏庭へ遊びに行ってしまった。

シリルは食堂のテーブルにパンとひとり分の食器を並べ、『スープ、あっためて食え。これから本、持ってく』と紙切れに殴り書きをしてスープ皿の下に挟んだ。

 

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午前10時18分。シリルは麻袋に入れた数冊の絵本を小脇に抱え、とある教会の前に立った。リディアと話し合ってとりあえず候補として上がったのが、教会と児童養護施設、それから幼稚園だった。家を出たときは幼稚園へ行ってみる気でいたのだけれど、気がつくと足が教会へ向いていた。

シリルは数歩下がって、黒い正門の外から教会の建物を見上げた。尖った屋根が澄み切った空へと真っ直ぐ伸びていた。風が強く、凍てつくような1月の日だった。平日のためかあたりには人っ子ひとりおらず、静けさのなか、ほんのときおり烏や雀の鳴き声が空にこだまする程度だった。シリルは麻袋のなかの絵本に触れた。1冊、2冊と取り出して眺めてみた。そして再び教会の建物に目をやった。

駄目だった。自分が中に入れるとは思えなかった。代わりに近所の養護施設をあたってみることもできたけども、シリルは何とはなしに気落ちしてしまい、一度自宅に戻ることに決めた。

 

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家に帰ると、ポストに手紙が1通入っていた。マーティンからだった。封を開けると、前回と同様、丁寧な字体で用件が書かれてあった。

 

シリルへ。

 

先日は会いに来てくれてありがとう。

僕個人の話になってしまい、申し訳ない。実は僕、とある古書店で働くことにした。そこの親父さんから店を譲り受けることになったんだ。

面倒を見ている例の子どもたちも遊びに来れるような、そんな雰囲気の書店にしたいと思ってる。もちろん、君とリディアさん、マーカスたちも、いつでも大歓迎です。

今週、22日からぼちぼち店に出ることにしたので、気が向いたら遊びに来てくれると嬉しい。念のため、住所。

 

ストラストヴィーチェ書店

エスター通り 29k 6f

(朝10時から夕方5時まで。通りを挟んで向かいにある食堂は、サンドイッチが美味しい。是非、リディアさんと訪れてみて)

 

それでは!

 

マーティンより

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

tête-à-tête 77

1872年、春。シリルが捕まってからおよそ2週間後の、木曜午後6時。ビレホウル王国の首都スキャルケイルにある、イステル第2女子高等学校の寮の正門。授業を終えたリディアが門に向かって歩いている。数メートル後ろには4、5人の女の子のグループがいて、クスクスニヤニヤ笑いながらリディアのあとをつけている。

正門の前にはいつもと同じ門番が立っていた。彼はリディアの姿を見るなり、下を向いた。リディアも黙って門へと近づいていく。けれども門番のそばを通り過ぎようとしたその瞬間、突然後ろから何者かによって突き飛ばされた。リディアは地面に膝をついて転んだ。学生鞄もリディアの転んだ場所から数十センチ前方に飛ばされ、中から教科書や筆記用具、櫛が飛び出した。そしてその櫛を踏みつける足があった。リディアがその足もとを見上げると、あとをつけてきた女の子たちが笑って彼女を見下ろしていた。

『あーらごめんなさい、間違えて踏んじゃった』

背の高い金髪の女の子が、鼻で笑ってリディアに言った。どうやらその子は、グループのなかでもリーダー格のようだった。そばで見ていた他の女の子たちは、一様にクスクスと笑う。そのうちのひとりが続けてリディアに言った。

『ねえ?ちょっと教えてほしいんだけど、』

その子はすぐそばでおどおどはらはらしつつも注意ひとつできない門番に目をやり、それからリディアのほうに視線を戻して言葉を続けた。

『ヘンな噂が流れてるの。あなたとこの守衛のオジサンって、何、つき合ってるの?』

リディアは地面に両手をつき、視線を落としたまま黙っている。櫛に手を伸ばそうとすると、金髪の女の子は櫛を1、2メートル先へ蹴飛ばした。それで女の子たちは全員ワッと笑い出し、一斉にリディアをからかい始めた。

『へー、男好きなんだ、それも学内で、年上のオジサンと?』

『不っ潔!』

『え、でもでもこの子ってさ、一度に何人もの男の子とつき合ってたっていう噂も以前からあったよ?』

『えーっ』

『じゃあ、相手が誰でもお構いなしに、もう慣れっこなんだそういうの』

『やだここ、お嬢様学校なんですけどー』

女の子たちは再び一斉に笑った。すると金髪の女の子が、最後にとどめを刺すかのように吐き捨てた。 

『まるであり得ないよね。きったない売女。さ、みんなもう行こ。病気でもうつされたりしたら大変だもの』

女の子たちはげらげら笑いながら、地面に落ちたままのリディアの持ち物を一人ひとり順繰りに足蹴にし、寮の部屋へと立ち去って行く。リディアはただ黙って自分の両手を見つめている。

『あ、あのう、大丈夫?』

女の子の集団が遠くへ去ってから、門番が震える声でたずねた。そしてリディアの腕に手をかけると、あたりを見回し、小声で言った。

『あのさ、君さえ良ければその、また守衛室に来ない?』

そう言うと門番は、起き上がりかけたリディアの腰に手を回した。

『僕の奥さんと子どものことなら心配な……』

リディアは門番を突き飛ばし、地面に落ちた鞄と教科書とを拾って力いっぱいに投げつけた。投げた教科書のうちの1冊が門番の顔に当たり、門番はよろめく。リディアは急いで荷物を掻き集めると、そのまま自分の部屋へと全速力で走り去って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

tête-à-tête 76

ビレホウル王国の首都、スキャルケイル。1901年1月18日。レイチェル・ニールセンは亡き父親の邸宅の主寝室にいる。彼女は暖炉のマントルピースの上に置かれた小箱を開けると、翡翠の指輪をそっと取り出し、微笑みながら左薬指にはめてみる。

『ほんっとあの人ってば今頃、いったいどこで何をしてるのかしらね?』

レイチェルはあれこれ想像しては、ひとりでにんまり笑う。

『馬の飼育係をしていないことだけは確かね、ふふ。でもまあ、好きなことを思いっきりやってもらわなきゃ。あの人、見た目とは裏腹に、実はいーっつも自信なくて、どう思う?どう思う?って、私に聞いてばかりいたもの』

 

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ホワイト・ヘイヴン市内のマーティンの家。1901年1月18日、午後1時。マーティンは食堂のテーブルに座り、テーブルの上に置かれた額縁入りのデッサン画をぼんやり眺め、ほうっとひとつ溜め息をついた。

『あーあ、困るんだよね、』

マーティンは頬杖をついて、デッサン画に話しかけてみる。

『誰に相談してみてもさ、最終的には君に聞いてみないと、僕は何ひとつ安心して決断することができないような気がするんだよ。何でもホイホイ、ひとりで決めそうな男に見えるかもしれないけどさ』

当たり前だかデッサン画は答えてくれない。マーティンは口をすぼめて拗ねてみせた。

『ちぇ。つまり自分で考えろってこと?じゃあさ、僕が晴れて一人前の店主になったら、会いに来てくれない?それなら僕、やってみるけど……』

 

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同じ日の午後3時。マーティンはシトルシアの喫茶店にいる。店主のマクシミリアンは興味津々な様子でマーティンにたずねる。

『古本屋の店主ですか!いいじゃないですか。マーティンさんはもともと学者さんなのだし、本に囲まれる姿が容易に想像できます。適職、というか、ズバリもう【お似合い】ですよ』

『いやあ……、雰囲気に飲まれちゃダメですってば。僕はマクシミリアンさんや書店の親父さんと違って、お金、つまり経営のことはさっぱりわからないんだもの』

『ここはホワイト・ヘイヴンですから、心配いりませんよ。稼げなくても生活できるようにできてますから』

『そういうことは、いつだったか親父さんにも近所の人にも言われたことがあるよ。ここは心配事は一切無用の街で、楽しんだ者勝ちだぞって』

『ええ、そういうふうにできてるんです、ここは』

マクシミリアンは笑顔で3杯目のコーヒーを出す。マーティンはマクシミリアンを見て言った。

『ん?3杯目は頼んでないけど?』

『この1杯は私からのお礼と特別サービスです。子どもたちがいつもお世話になっていますから』

『……ありがとう。そうそう、そうなんだよ、僕が本屋を継ぐとなると、毎週子どもたちの相手をするってのが、できなくなるかもしれないんだよ。ストラストヴィーチェの親父さんはね、店に子どもたちを連れてきて遊ばせても全く構わないって言ってるんだけど。なんなら絵本のコーナーでも設けろとまで言ってる。あの人のアタマのなかでは、もうすべてがイメージされちゃってるみたい。最後に僕を会計脇に座らせれば準備完了!みたいな』

マーティンは困惑した様子でブラックコーヒーをひとくちすする。そして案の定、テーブルの上の瓶に入った砂糖をスプーンで山ほどすくい、2杯、3杯、4杯とコーヒーに入れた。マクシミリアンはにこにこ顔でマーティンに助言した。

『ほら、もうお膳立てができているではないですか。マーティンさんのために、すべてがうまく整ってるんですから、思いきってここで乗り込まない手はないです。私もねマーティンさん、この店、もう少し続けてみることにしたんですよ』

マーティンはマクシミリアンからのありがたい知らせに、つい興奮した。

『ほんと?!……てことは、お隣の【ブラック・マスト】…というか、アヴァリエ絡みの物騒な事件が減ってるってこと?』

『ええ。不思議なんですけども、ここひと月のうちにめっきり減りました。まだ油断はできませんけども。どうなんでしょう、時代の流れ、なんでしょうかね?不満分子自体が減ってきているのかもしれません。今後も気をつけるに越したことはないですけどね』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

tête-à-tête 75

1872年、春。スキャルケイル市内にあるヤンセン孤児院。水曜日の午後1時。リディアがシリルの部屋に駆けつける。聞き慣れた足音とノックの音とを聞いて、シリルがドアを開けた。

『どうした。授業は』

『今朝、部屋に警察の人が来たの』

シリルはリディアを部屋に入れると、すぐにドアを閉めた。部屋に入るなり、ベッドの上に置かれた旅行鞄といつものミリタリーコートがリディアの目に留まった。おかしい。机の上にも、ベッド脇の棚にも、何もない。半開きにされたクローゼットも、がらんどうのようだった。

『何してるの』

『警察が来たのか』

『シリルこれ、何してるの』

『ごめん。今すぐ寮に戻ってくれ。今日は夜までいてくれても、無事に送り届けることができない。それから、』

シリルはリディアの両肩を掴んで言った。

『警察に俺のことを訊かれても、知らないと言え。いいな?』

『シリルもしかして』

『いいな?俺という人間とは面識ひとつないんだって、ただそう答えろ』

『無理だよそんなの、ここの院長先生だって、寮のあの門番のオジサンだって、私たちのこと知ってるじゃない』

シリルは突然、リディアを怒鳴りつけた。

『いいから黙って俺の言うことを聞いてくれ!もう俺に関わるな、早く寮へ帰れ』

追い返そうとするシリルの腕に、リディアは力ずくでしがみついた。

『あなたでしょ、あなたなんでしょ、殺してくれたの』

シリルはリディアの体には一切手を触れず、そのまま身を固くして立ち尽くしている。シリルは小さな声でリディアに言った。

『……クローゼットの中に、拳銃とスカーフが入ってる。俺が刑務所にいるあいだ、預かっててもらえるか』

リディアはシリルにますます必死に抱きつき、涙声でシリルの腕を揺さぶった。

『ねえ。ねえ。あの人だったら、もういないんだから。門番のオジサンだって、もう関係ないんだから。だから、行っちゃうんなら、あなただったら私、今ここで何されても構わないから』

『自分を安売りするのはもうやめなさい!!』

『違う、そうじゃない、あなたのことが好きだから言ってるの!これから先、会えなくなるなら、これがもし最後なら』

シリルはリディアをきつく抱き締めた。そして耳元で再度、頼み事を伝えた。

『拳銃とスカーフ、お前に任せてもいいな?それから、俺が戻ってくるまでは、俺のことなんて一切知らないと、シラをきり通せ』

リディアの体は小さく震えだした。シリルはリディアの頭を抱き、念を押した。

『いいな?できるな?』

リディアは観念してうなずいた。するとシリルはクローゼットへ向かい、袋に収めておいた小銃とスカーフ、それからブローチをリディアに手渡した。

『卒業したら一緒に暮らそうと言ったのは俺なのに、こんなことになって、ごめん。必ず、戻ってくる。そのときもし、お前さえいいって言ってくれるなら、一緒になろう』

そう言うと、シリルはもう一度リディアを抱き締め、口づけた。そしてベッドの上の旅行鞄とコートを掴むと、リディアに最後の指示を出した。

『俺が先に出る。お前は数分、間を置いてから出ろ。今日のことは、すべて忘れるんだ。ここに来たことすら忘れて、何事もなかったように振る舞うんだ。お前には逃げ切ってほしい、お前には何の罪もないんだから』