『施し』と『見る目』

今年もクリスマスが近づいてきた。

私は正教徒なので、楽しもうと思えば新暦、旧暦と2度のクリスマスを楽しめてしまう立場の人間である。

基本的に毎年この季節には、教会へ向かう途中でお見かけするホームレスの人々に、施しをさせていただいている。

大したものではない。寒い時節なのでホッカイロ1枚だったり、お菓子だったり、あるいはただの小銭だったり、私が出来ることなどたかが知れている。

けれども今年は、躊躇している。いや、今後のことを含め、躊躇するようになった。

理由はふたつ。

ひとつは単なる己の健康問題。辛く苦しいことが長年続き、体力も気力も萎えてきた。

もうひとつは、『目の向け方』の問題。

人がホームレスになる理由としては、経済的な困窮がまず頭に浮かぶ。何らかの理由で職を失い、場合によっては家族も知人・友人もすべて失い、あるいは望まぬ形で人々との縁を絶ち、住まいも失い路上へ…という、転落のイメージがある。私も基本的にはこういう見方をしてきた。基本的に。

けれども広い世の中見回してみると、必ずしもそうではないだろう、ということに気づく。自分の意志で、一般的に想像される困窮とは全く次元の異なる理由によって、ホームレスという人生を選ぶ人々もいる。

つまり、本当の意味での世捨て(あるいはそれに至極近いもの)、という在り方である。

本来ならば自らのものとして所有して良いはずの最低限の食物・衣服・住まい・金銭・社会的地位・肩書などを、自らの意志で放棄してしまう人々もいるのである。

そのことについて改めて捉え直しをしたときに、私は思った。このような人々に対して憐れみの念で施しをするのは、正しくないのではないか。そこにあるべきなのは憐れみではなく、『崇敬の念』あるいは『畏敬の念に近いもの』なのではないか、と。

そう思ったとき、今まで杓子定規的に施しを行い、善良なクリスチャンになったつもりでいた自分がみっともなく思えた。目の向け方を誤っていたばかりに、心の中身まで間違い、その中身を取り出し入れ替える作業を怠っていたのである。

…愚かだな、自分。

そこに気づいてしまった以上は、再び捉え直しをしなければならない。毎週、毎月のように、この繰り返しである。

実際に施しという行いをどうするかについては、12月のクリスマス直前まで考えたい。例年どおりホームレスの方々に向けるかもしれないし、あるいは難病児のために寄付をするかもしれない。そこのところは神と対話して、最終的に『するのかしないのか』を自分で決断したいと思っている。いずれにしても、まだまだ心の準備がちっともできていない。そんな私はただただ自己中心的で損得勘定ばかりで、要はずるいだけなのである。そこがいちばんの問題なのである。