14歳くらいの頃から思っていたことは、正しかった。
こんな暴力や悪意・敵意に満ちた社会と関わるのは良くない。
この社会との繋がりを絶つことは、まともなこと。
関わることそして関わることを良しとして他人に勧めることのほうが、おかしい。
自分はこの7年間、医療・福祉関連の職員からもいじめ嫌がらせ・酷い虐げを受けてきた(正確には、今も進行中である)。
だから実感と確信でもって言えるのだ。この世の苦しみは悪意に満ちた人間の自作自演によるものだと。それらが充満し循環することで、直接的には何の関係も
罪もない第三者が犠牲になるのだ、と。
人間こそあらゆる生き物のなかで最も醜悪であり、そして対人援護職に携わる者のなかにこそ、醜悪で腐りきった動物がウヨウヨ存在している。
正教において人間は神の似姿とされる。したがって、元来すべての人間は善であると。
私には決してそうは思えない。人生のスタート地点からして違う。決して神が悪いのだとか宗教が問題なのだということではない、決して『そちら側』に問題があるのではないーー諸悪の根源は人類にあるのだ。暴力性・破壊性こそが人類の本質なのだ、『こちら側』の問題なのだ。
正教の教義上、自殺は大罪とされるし、以前は私自身も反対の立場を取っていた。
けれども、このように穢れきって殺伐としている世界に、もはや無理して長居する必要はないと考えるようになった。医療・福祉による執拗な虐げを受け始めてから、私自身、毎日毎日自殺を考えている。
この世界ー特にこの、日本社会のような場ーで生きることは、無意味である。たとえ老いて病死するにしても、それまでの時間をどのような熱意を持って過ごしてみたところで、結局は無駄なのだ。時間それ自体を、私は忌み嫌う。永遠と対である『時間』というものの実体が何なのか、それをどんなに考えてみたとしても、虚しさしか残らない。無意味、無意味、何もかもが無意味‥‥。
苦しい。
あのような醜悪な動物たちに囲まれさえしなければ、この世を見る目も少しは違っていただろうに。運が悪過ぎたのだ、私はあまりにも運が悪過ぎた。神からも見放されたように思う。
私は暮らしというものを放棄した。抽象的なもの感覚的なものに逃げ込むようになった。そして文字どおり、まともに外出すらしなくなった。
いつ何が起きてもおかしくない。私はそういう境遇の人間である。だから身辺整理や葬儀の予約など、すべきことだけは淡々と行っている。それ以外では、もう、『生活』は行っていない。食事も、関心が薄れた。ただただ、深い眠りについてそのまま消えてしまえたら、良い。
本当ならば時間を無駄になどしたくなかった。目一杯、熱意をもって生きたかった。それができなくなった以上、無駄にしているとわかっていても、もう私にはどうすることもできないのだ。