降誕祭から復活大祭へ

洗礼を受けて1年と5か月。

私は23日とクリスマス・イヴに、生まれて初めて神に悪態をついた。

なぜ私だけがこんなに酷い目に遭うのか、神なんていやしない、いたとしても私のことなんて気にかけてもいない、と。

 

降誕祭当日。

不思議なことが起きた。

私は自分が『霊的な人間』であるということを認めた。

捉え方は人それぞれだが、私にとっての霊というのは、

『抽象概念に個々人の情熱を乗せること』だと思う。

つまり、愛という抽象概念を心に描いたとき、それを抽象概念の次元にとどめて漠然と眺めるのではなく、私自身の持つ希望であったり願いをそこに添えることで生きていく、ということ。

 

そして私は、そうした霊・魂を人と人とのあいだに循環させていくこと、もっと言えば愛によって私たちの『あいだ』を満たしていくことが、人間にとって最も本来的な生き方だったのだろうと思っている(※過去形であるのが悲しい)。

 

だから、と言うのはこじつけかもしれないが、神そしてイイスス・ハリストスという愛そのものであるお方が、わざわざ人の姿形をとってこの世に降りてきてくださったというのも、特段不思議なことではなかろうと思う。私たちに愛に満たされた生き方をしてほしいがゆえに、神はそのような方法をお取りになったのだ、と。

 

私はクリスチャンだけれども、実は『復活』という言葉そのものは好きではない。どうしても『敗者復活戦』というフレーズを思い出してしまうから。

これは私の勝手な解釈だが、磔にされたイイススは、悪魔と闘って死んだわけではないし、ましてや負けたわけでもない。死んだと見せかけただけだと思う。

 

『死をもって死を滅ぼす』、とは言う。私はこのひとつめの死というのは見せかけであって、なおかつふたつめの死つまり悪(魔)というのも、完全には滅ぼされていないと思っている。

つまり、神さまはたった一度の闘いで決着をつけようとは考えておられない。悪(魔)というのは敢えて、ただちに生き返る死でなければならない。魔物はこの世に居座り続けなければならない。それも神のご計画のひとつなのだ。

そうでなければ、いや、結局のところ悪魔がいようといまいと、幸福だろうと不幸だろうと、人はすぐに自らにあぐらをかいて、神から分離してしまう。私たちはそういうものなのだ。だから復活大祭に限らず、毎週毎週、イイススは小さな復活を遂げなければならないのだ、容易に穢れてしまう私たちのために。

 

イイススは愛そのものである。それゆえ、本来的な意味で死んでしまうということはないだろうと私は信じているし、そう願っている。だからこそ、『死をもって死を滅ぼす』と言っても、この前者の死は良い意味での見せかけだと思いたいし、敗者復活戦という意味での復活などではないと信じたいのである。