Livet forstås baglæns, men må leves forlæns.

Livet forstås baglæns, men må leves forlæns.
ーSøren Aabye Kierkegaard

一見、非常に静けさを感じさせながら、目の前でガツンと釘打ちされて視界を遮られてしまうような、力強く動的な一文。

まず冒頭のlivet。
Livet er godt.(Life is good.)という表現にもあるように、単なる慣用なのかわからないが、end articleになっているところが凄い。

つまり、時間、人生、人生のなかで生きる人間ーーすべてにおいて、有限であるもの。いわゆる「この世」において、枠に収められ限定されているもの。

それら一切はforståされるのだけれど、単なる理解というより、
「体験、学び、過ち、後悔、諦念、自己嫌悪」
などといった、人生における不可避の了解事項として受容すること。

そしてそのlivetは、må/måtteという法助動詞に表現されるように、有無を言わせず「生きられ」なければならない。

Skalや(er)nødt til at~以上の切迫感、選択の余地のなさ、緊張感がmåに表されているような気がする。

Livetがleveされなければならないというのは、livetそれ自体のなかに生命を注ぎ与えよということだと思う。個々の具体的な行動・体験を積み重ねることで、(有限であることは了承済みで)livetを生かしてゆくこと。それが人間の【生きる】ということであり、個々の人間の実存であるということ。

そして文末のforlæns。私はこの勢いのある、方向を指示する副詞が好きだ。この跳躍力、「それでも人は続いてゆくのだ」という力強さが、leaps of faith(信仰の飛躍)をにおわせる。

人間は人生において日々決断する必要がある。それは自己との関係において【態度を決める】ことである。

けれど人間は人間である以上、何を決断したところで結局は後悔する。そもそも、理性や合理性、屁理屈でもって決断しようとしてもしきれないことだってある。

そのときは、信仰つまり自分にとっての情熱に従い、飛び越えるよりほかない。信仰(情熱、愛、熱意)と合理性は両立し得ないから。
(※そしてこの両立のし得なさ・せめぎ合いというのが、enten/ellerということなのか…?)

これらは私なりの独断的な解釈に過ぎないけれど、こんな短い一文にこれだけ自由な解釈の余地があるというのは、やはり感激である。キェルケゴールとの出会いは、私にとってはまさに奇跡なのである。