Divinity is inexplicable~限りある者として~

Divinity is inexplicable.

私は常にこの思いで生きていきたい。

キェルケゴール著『天才と使徒との相違について』でも触れられているけども、神の権能というのは私たちの持つあらゆるものとは全く異質なものであるはずだ。

質的側面で共有できるものがない(私たちの側にそれがない)以上、私たちの言語によって説明したり正当化したり、あるいは反駁すること自体が無駄なのである。

そしてこの『無駄である』の捉え方によって、不可知論的な姿勢に至ってある地点で諦めてしまうか、それともただ素直に異質性に驚嘆し、謙遜の心でもってひれ伏すかのどちらかに道が分かれるかと思う(もちろん他の道に進んでも良い。それは個人の自由だ)。

私は後者の『驚嘆し、謙遜の心でもってひれ伏す』方を選んだ。そして、自分が無力であることを受け入れ、むしろそこに喜びと幸せと神に対する感謝があるのだと考えるようになった。

私はこれまでの人生において、自らが有限の存在であることについて、神を呪う部分があった。なぜ自分は死ななければならなくて、なぜあんなにあっけない形で、自分の大切な人が亡くならなければならなかったのかと、心のなかで神に叫ぶことがあった。嗚咽しながらはっきりと口に出すことすらあった。

だが、不思議なことにその恨み辛みをすっかり吐き出すと、有限性のなかに閉じ込められた自らの人生について、神に感謝するようになった。この世における時間は有限性そのものであるからこそ、大切にしようと思う。そしてそのように『大切にしよう』と思えるよう『仕向けて』くださった神の温かな御心に、感謝しているーー私の心までもが、こうしてほんのりと温かくなったから。

私はいつか、魂そのものになれたらと願っている。愛そのもの、慈しみそのもの、寄り添う心そのものになりたいと思う。

この世的に言えば、『そうしたことは難しい』と一笑に付されるだろう。まるで役所の職員のように、『社会では一般的に、そうしたことはできかねるでしょう』と小馬鹿にされるだろう。

けれど私は、そんなこの世的な諦念だったり、『そつなく、うまいこと得をして生きていれば良い』といった小賢しさは一切退ける。

一人の人間として願うこと祈ることは、いつかきっと叶う。この10年間、様々な艱難を経て、私は随分と変化した。そしてその変化は外からは見えない。見えない・この世の次元で指摘され得ないからこそ霊的な変化・成長なのであり、新たなる艱難の際に私を支え、喜びや力となってくれるものなのだ。