センス、傾向

今朝は詩よりも散文重視のアタマになっているので、せっかくだから書き残しておこう。

私は自信を持ちたいと思う。自分の力を信じたいと思う。

こういう発言をすると、キリスト教的には、お叱りを受けるだろうなあ。

あなたを信頼するのではなく、神を信頼しなさいと。

そこを承知したうえの、敢えての発言なのですがね。つまり信頼する神さまから与えられた能力だからこそ、それを信じ、それを保持している自分を信じ、何か行動することで、神さまにお返しをするということなのですよ。

なぜって、私という人間を選んで固有の能力を授けてくださったということは、神さまもそこそこ最低限、私に何か期待なさっていると思うわけだ(※思いたい、というのが本音)。

それだのに『自信がない、どうしよう』とぐずぐずしてばかりいては、いくら何でもよろしくないと思うのである。

『力』とか『能力』という言葉を用いるから、誤解が生じるのかもしれないね。センスとか、傾向という言葉を用いたら、少しはマシになるかしら。

どうだろう、英単語でいうとinclinationとかtendencyという言葉を私は何となく想起したのだけれどーー何か特定の方向だったり分野だったりに引っ張られているという感じ、そこを実感することが大切なんじゃないかと思う。inclination/inclineなんて、いかにも『傾いています、そっちの方向です』という語感がありはしないだろうか。

だから、その個人個人に与えられた『傾き具合』、センスといったものを自信なく持て余していては、それこそ神さまに失礼というものではないだろうか?

こういったことは何もキリスト教的場面に限らない。例えば普段暮らしていて、ある人に『あなたはこうこうこういう点が素晴らしいから、自信を持っていい』と背中を押されたのに、いつまでたっても躊躇して何も行動しない。自分では『こんな自分ではダメだから…』と、謙遜した気分になっているかもしれない。自分のことは自分がいちばん良くわかっているとーーけれどそれってひょっとしたら、ただの知ったかぶりなのではなかろうか?いちばんわかっていないのは、自分なのではないだろうか?謙遜のつもりで、実は横柄・傲慢、自己も含めた『排他』なのではないだろうか。

そんなこんなで、私は敢えて、自分に自信を持ちたい。自分がなすべきことを日一日淡々と確実にこなしていくことで、神さまに喜んでいただければ、私はそれだけで相当満たされて幸せになれるのである。何もできない、やることがない、とりあえずやってみたがやっぱり自分には向いていないなどと嘆くくらいなら、下手でも良いので楽しみながら何か行い、今日のこの日を何とか乗り越えたほうが良い。私は本気でそう考え始めてい