自分の『生きる理由』を忘れない

ここ数日、人と関わる時間があったためか、精神的にやや乱れが生じている。不安定、と言うほどではない。

私は小学生の頃から、いじめ・虐待・摂食障害に伴う形で、『鬱病が基底にある』生活を送ってきた。いわば、これが私の暮らしのデフォルト。

人と話せるだけ、マシだとは思う。それが通院先の医師との会話であっても。

だが、

『話す』

→『相手の反応・対応によって自分の気分が上下する』

→『自責の念や怒り、悲しみなどで、あるいは少し元気になり過ぎて、自分がまとまりのない存在になってしまう』

という流れによって、自分がどうも不幸せになっているのも、事実としては否めない。

人との関わり、世俗との関わりによって、残念ながら雑念が入ってしまう。それで信仰についての勉強も、散逸という単語がまさにピッタリなほど、気持ちが散りがちになる。

これ、私には、本当に不本意なんだよなあ…。

私は、自分にとっての『生きる理由』は、やはり『死の向こうに突き抜けること』だと思っている。キリスト教徒の教科書的解答でいけば、『永遠のいのちを信じること』なのだと思う。

だから、そんな『生きる理由』を忘れたり一部見失うことが、やはりとても不本意だし、自分弱いな~と思うし、気持ち的にも何だかとても不快だったりする。

要は自分の心構えがまだまだお子ちゃまなのだ。本当にかっちり固まっていれば、この世にいたって芯はぶれたりしないもの。

そう、本来ならね、この世で暮らしていても、世俗のものに囚われずに霊的存在として成長するのが、最も偉大だし、理想。けれどそれが自分にはできそうにない。

だから私はそこのところ開き直って、自主的な避難というか、積極的ひきこもりをすることにした。自分にとっていちばん大切なのは、信仰固めだから。ヴァーチャルな山ごもり、とでも言ったら良いかしらん。実際、山にこもれたら最高だろうなあ。

これを書いている最中、睡魔が襲ってきて少し困った(笑)。自分でも、本当に何を言いたかったのか、ちとわからぬ。アホやな。

ま、とりあえず、私にはこもることが似合っている。それがベストの在り方だと気づいた。こもるということにマイナスの意味づけをせず、自主的に楽しく向き合えたら良いなとは考えているところだ。