いつも不可解に思うことがある。
なぜ人は私に向けて、
『頑張ってください』
とか
『もっと頑張りましょう』
と言うのか。
そんなに私、周囲から見て、頑張っていないのだろうか。
…。
……。
40代の私が私という一人の人間を見て言えるのは、
『この40年余り、あなたは人の何十倍も頑張ってきたから、ボロボロになった。そして、何十倍も頑張ってきたから、別段もう頑張らなくとも、【できる】ようになった』
ということだけだ。
40、50、60にもなって『頑張ること』を自らにも他人にも強いるって、いったいどういうことなのだろう。
私は子どもの頃から漠然とわかっていた。
何も自分に無理強いしなくたって、道は用意されていると。若かりし頃には抗ってみても、最終的には自然自然と、その道のほうへ流れるように、そういうふうに【できている】のだと。
わかっていたのに、周囲のこの世的な言葉に流され、批判や非難も受け、この世的なお説教やお節介も受け、流れてはならない方向へ流れてしまった。それがかつての私であり、今もその欠片が残っている。それも、たーくさん。
惑いそうになったとき、私は天主経を唱えることにしている。
天に在す我等の父よ
願わくは爾の名は聖とせられ
爾の国は来たり
爾の旨は天に行わるるが如く地にも行われん
我が日用の糧を今日我等に与えたまえ
我等に債ある者を我等免すが如く
我等の債を免し給え
我等を誘に導かず
尚我等を凶悪より救い給え
(蓋し国と権能と光栄は爾に世々に帰す
『アミン』)
ここのところ、キェルケゴールの『野の百合、空の鳥』『現代の批判』『天才と使徒との相違について』が心にジワジワきている。
思い煩いというのは、人間特有のものなのであろう。言語化できてしまうゆえの、苦しみである。思い煩いの背後に感情はあるけれど、思い煩いそれ自体は思考とか思弁とか言われる類のものと結局は同じだ。
だから野の百合と空の鳥に学び、存在し絶対的に【今日】となり、絶対的に喜べるようになれと、キェルケゴールは提唱するのだろう。それはひょっとすると、私が願っているような、『思考を超越し、魂それ自体になる』ことと重なる部分があるのかもしれない。
そうした私の願い・夢は、『是が非でも無理に頑張って』どうなるものではない。私ができることといったら、心のなかで神さまとつながり続けること、神さまに語りかけ祈り続けることだけだ。
私はもう、頑張らない。
神さまを信じて、『手放し、広げる』。
もうこれだけだ。