『神の御前の自分』。
キェルケゴールの『死に至る病』でも再三再四出てくる表現だけども、神さまを意識した身の置き方に、私はいつも苦労する。
【exist】させた自分を【be】させようとするとき、いつまでも【出す】という感覚のままでいては、出しゃばりになる。その出しゃばり、本当にオマエの姿なの?みたいに疑う部分も出てくる。
かといって【be】の自分をあまりにも長いあいだ静かに静か~に保っていたら、なんだか神さまに見つけていただけないような気がしてきて不安だし、神さまに申し訳ない気分になってくる。本当は是非とも私を見ていただきたいのですが、何だかどうにもお見せできない状態なんです、みたいな。
【exist】と【be】のバランスって、やっぱり難しい。いやそれよりも、難しいと思ってしまう私の感じ方に問題・課題があるのかもしれない。
なぜなら、どんな姿・状態でいても、出ていても引っ込めていても、神さまは私をご覧になっているはずだから。特に、隠れていてくすぶっていて申し訳ないと思うのは、神さまを信頼しきっていないことの表れのような気がするから。
これをお読みになって『んあ?何言ってんだコイツ』と思われた方は、こちらにざっと目を通していただけたらと思う。それでも、ダメだと思うけど(笑)。私は主観・独断で生きているから、人に伝わらない部分は沢山あると思う。私は私だから、それでいい。この世ではそう割り切って生きております。
Suede - Barriers (Rehearsal Room Video)