いじめと虐待を同時期に受けた者として、告白しなければならないこと。
私は人間を愛することができない。
人間の本質はその暴力性にあると思うから。
人間は悪(魔)にそそのかされたのではない。率先してそれに魂を売り渡したのだ。自由意志によって、『破壊神』になったのだ。成り下がったのだ。
破壊神である人間と神のあいだには、絶対的な差異がある。何をしたところで越えられない生け垣や柵のようなものがある。見た目は生け垣や柵だから、容易に外せそうな気がするが、結局は押し返される。
私は破壊神を愛することができない。私自身もその破壊の一端を担う怪物に成り下がり得る。いつだって可能だ。
だから神しか愛せない。
神を愛そうとする自分自身を少しでも愛せるようになって、修復していくしかない。
恋愛も、私には無理だと思う。
いじめ・虐待という個人的体験によって受け取った非常にネガティブな人間像を、人間一般の普遍的な真理・本質として理解してしまっているからだ。
(これには私がINFJタイプの人間であることも影響している。抽象概念の理解と応用に長け、物事の本質を追求しようとするのがINFJだから、当然と言えば当然なのだ。)
キリスト者であろうとなかろうと、人間の恋愛というのは結局のところ肉体目当てであり、相手を愛することよりも己の寂しさを埋めてナルシシズムを堪能するための行為であり、世間体を気にして何とか結婚にこぎつけようなどとする自己保身行為に過ぎない。
恋愛が愛へと成熟するために、いったいどれだけの自己犠牲が必要になるだろう。恋愛を体験しているそのさなかに、恋をしている自分に酔って諸々の『イベント』に一喜一憂しているそのさなかに、自己犠牲について真剣に考えられる人がいったいどれだけいることだろう。
そのことを考えると、私は自分自身の自己欺瞞ぶりが、反吐が出るほどにイヤになる。他人に対しても反吐が出かかる。
そんなんだったら、私の特質(?)であるサピオセクシャルな部分を大いに活用して、人間ではなく人間の持つ知性そのものに惚れていたほうがよっぽどマシなのではないかと思う。
悲しい。
両腕を広げて人間を愛せないというのは、あまりにも悲しい。