抽象概念優位、条件つきの分かち合い

私は何かしらの脳の異常があると思う。

いじめと虐待によって、9歳から13歳になる直前までのあいだ、ほとんど誰とも言葉を交わすことがなかった。話をしてくれる、聞いてくれる人がいなかった。身体的暴力も、言葉の暴力も、家庭と学校の両方で受けた。

 

『日常』に欠けた家庭だったから、あれが楽しかったとかこれが美味しかったなどという、ごくありふれた人と人との会話もなかった。穀潰しだの能無し・役立たずなどと吐き捨てられることが、私の日常茶飯事だった。

 

だから私にとって、人との会話(雑談)というのは価値が低い。意味を見出せないから、優先度が低い。ここ数年、挨拶すら無意味だと思うようになってしまった。具合の悪いときは、本当にもう、何ひとつ感謝などできない。なぜ感謝しなければならないのかと牙を向くだけである。

 

そうなると、頭で考えること・口に出したくなることは、『浮き世離れした』抽象概念優位の話題しかなくなる。世間そのものへの関心や愛着が、ほとんど全く、ない。誰が何をしたとか、私自身が今日の朝食に何を食べたとか、そんなことは聞きたくも話したくもなくなってしまう。

 

人との分かち合いも、限定的・条件つきだ。

 

私は喜んでいる人々・楽しんでいる人々との分かち合いができない。多数派の人々が幸せを噛みしめているその裏で、いじめを受け無視放置されている人々が数人はいるはずだからだ。現実は『どこの世界も同じ』なのだ。同じだから現実なのだ。

 

せいぜい私は、絶滅危惧種の野生動物だったりホームレスの方々だったり、いろいろな形で隅に追いやられた対象にしか、気持ちを向けることができない。そうした対象に施しをさせていただくことしか、私にはできないし、したくもない。

 

だから、キリスト者として魂そのものになりたいと言っても、私のできること愛することなんて、限局的でしかない。それしかできないのだということを、認めざるを得ない。