自分の時(の使い方)を責めない

たった今、ゴミ捨てに行ってきた。

惰性で耳栓をしたまま外に出たのだけども、ザーザーという直線的な雨音は聞こえた。相当降っているんだろうな(まるで他人事)。

 

にしても人間は生きている限りゴミを出し続けるのだな。うんざりする。私の場合、やはりノートなどの紙製品が最も多く、残りはジップロックにビニール/プラスチックのパッケージ、紙の外箱などだ。歯磨きなどは、ちょーっと値の張る物を買うだけで、外箱がついてくる。無駄だ。無駄過ぎる。処分のための時間も勿体ない。

 

まあ、気を取り直して今日もキェルケゴール先生と対話をしたい。

デンマーク語の全集は、今は全く意味が取れなくとも、毎日必ず2ページくらいは読むことにしている。

思うに、キェルケ先生の文章は、ちょっと頑張れば意外と読めるようになるかもしれない…。先生は同じことをぐるぐるダラダラと執拗に繰り返し述べられることが多い(失礼。でもそこが好きなのよ)。なので、同じ単語を何度も繰り返し使用なさる。

だから学習者・求道者・ストーカー的な先生のファンとしては、先生が頻繁に用いられる語彙それから先生特有の言い回しを習得すれば、1割、2割、3割…と理解できるようになると思う。なので、私としては、まあ楽観視している。

 

毎日思うのよね。

自分、もっと若いときに先生に出会えたら良かったかしらん、って。

高校倫理の時間にキェルケ先生に出会う人も多いだろう。いや、探求心旺盛な人は、中学生の頃に既に『死に至る病』なんぞを読んで、ひょっとするとそこから哲学の道に進むのかもしれない。

私にはそういう機会が、若かりし頃には、まあーったくなかった。ゼロ。ジルチ。むしろマイナスかよ、みたいな有り様だった。

 

でもなあ、旧約聖書伝道の書』にもあるけれど、あらゆる物事にはそれにふさわしい時があるんだよな。出会い(出合い)も、別れも、心の叫びも、沈黙も、すべて起こるべきときに起こり、なされるべきときに最善の形で行われるんだよねえ。

 

だから、過去を振り返って『あのときこうだったら』と嘆くのは、しなくて良い余計な仕事なのかもしれない。

 

きっと、今こうして出会う(出合う)べき人や書物とつながりを持てていることに、気持ちを集中させたほうが、私の心それ自体が安心するだろう。

 

だから、今まで時というものを上手に使えなかった自分のことを、あまり責めないように気をつけている。

 

それよりも何よりも、時空を超えてSøren Aabye Kierkegaardという偉大な神学者に出会えたこと。この点に限定して考えれば、私という人間は何とまあ幸せ者かと思う。だから先生とのつながりは絶対に失わないよう、日々先生の作品を大切に読み、それらに思いを馳せ、先生を愛したいと思っている。それが私の生きる目的のひとつだ。