単独者として生長したい

キェルケゴール著『キリスト教の修練』を読んでいる。以前あまりにも難解と感じて、中途で放置してしまっていたのだけど、数か月ぶりに戻ってみたら意外と面白くなってきた。

 

私はぼんやり考える。

単独者として生長したいと。

(※キェルケゴールは成長ではなく生長という単語を用いているので、私も真似をさせてもらうことにした。)

 

確かに、単独者として生きるというのは、棘の道なのよね。そりゃあそうだ、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)御自身が単独者ならば、イイススを追う私も単独者にならざるを得ないのだから。そこんとこを『いや、私にはちょっと厳しい道ですので、ご遠慮させて頂きます…』みたいにかわして逃げるのは、ズルイ。それでは自ら棄教を申し出るのと同じだ。

 

棄教というと何となく一般的なイメージとして、

『もう教会へは行かない!』

『神さまなんかもう信じられない!』

『こんな教義は間違っている!』

みたいな心の叫びやら怒りやらに端を発して教えを棄てる、という感じがある。

 

でも、真の意味で『やめてしまおう』というのは、単独者であること・あろうとすることをすっかり放棄することなんじゃないかと、自分なんかは思う。

 

だから逆の見方をしてしまえば、毎週教会へ通っていても、あるいはその姿が端からは熱心に見えても、殉教の覚悟なしに『楽しいキリスト教』を追求しているだけならば、それは既に棄教しているということ。

 

キェルケゴールも、確か『わが著作活動の視点』のなかで述べていたと思う…当時のデンマーク国教会では『楽しいキリスト教』が差し出されているだけで、本来あるべき姿の『苦難のキリスト教』ではなくなってしまったと。

 

人間に都合の良い、ラクな宗教に変えられてしまったということかしらね。こんな高尚かつ難易度の高い教え、どうせ人間には守れないわよという開き直りかね。それを教会がやってしまっているというところに、キェルケゴールは我慢がならなかったのだろうなあ。

 

それにしても不思議なことに、春が近づくにつれて何かが自分のもとに『戻って来る』感覚がある。

別に殊更にパスハ(復活大祭)を意識しているわけではないのだけども、やっぱり何か新しい息吹であったり、新鮮な果実のような瑞々しい輝きがやって来るような、一風変わった時間と心の動きを感じている。