19世紀末、ビレホウル王国。首都スキャルケイル。
スキャルケイル王立大学の3年生、マリオン・レンは書店から通りに飛び出し、一心不乱に両腕を振り、叫ぶ。
「教授!レイノルズ教授!誰かあの馬車止めて。レイノルズ博士!」
馬車が止まり、レイノルズ教授が扉を半分開けて顔を出す。マーティン・レイノルズは今年の夏前までスキャルケイル王立大学哲学科で教鞭を執っていた。肩まで伸びた黒髪が、強い北風のせいで暖簾のようにはためいている。マリオンは息せき切ってレイノルズのもとに駆け寄る。
「ああ、確か君はマリウス君」
「違いますマリオンです」
マリオンはムッとした表情で訂正する。丸2年講義に出席して毎講義のごとくレイノルズを質問攻めにしてきたのに、名前さえ覚えてもらえていない。
「博士、こんな馬車になぜお乗りになっているんです、こんな馬車でいったいどちらへ行くおつもりなんです」
「おいお前、二度も【こんな馬車】と言ったな」
気難しそうな御者の男が反応する。レイノルズ教授は黒のウールのコートの前を留め、扉を全開にする。北風が一気に座席に入り込む。
「なぜと言われてもなあ。その時が来たから、としか答えられんよ」
「大学はどうなさる、いえ、どうなさったんですか、夏前に姿をお見かけしなくなってから、先生の周りにはおかしな噂ばかりが」
「博士と呼びなさいマリオン君」
マリオンは額の汗を拭い、呼吸を整えようとする。レイノルズは講義のときと変わらない、ある種のうのうとしたいつも通りの態度でマリオンの様子を眺める。
「博士、僕もこの馬車に乗せてください。いや、乗ります。話を聞かせてください。他の学生も心配しています」
馬車に乗り込もうとするマリオンを、レイノルズは穏やかに制止する。マリオンはレイノルズに胸を押されて、軽くふらつく。
「君が来る場所じゃない。少なくともあと30年は早いだろう。そのときになったら私か私の知り合いか誰かが紹介するさ。そもそも、君のもとに勝手に招待状が届いているだろうよ。まあいずれにしても、そのときになったら、だ」
レイノルズは素早く身をかがめてマリオンの身を片手で引き寄せ、マリオンの額にキスをする。そしてまた素早くその身を引いて馬車の扉を閉め、御者に馬車を出すよう指示し、投げキッスとあかんべぇの両方をマリオンに送る。
マリオンはあっけにとられた様子で馬車が走り去るのを見る。