自宅警備員ならぬ

自宅修道者になろうと思う。

そのことについて昨日ずっと考えていた。実は以前からずっと考えていた。

嗚咽した。まる半日、泣いた。

この世的なものを、今まで以上に手放すことが、恐ろしく感じられた。

私はもともと、他の人たちには容易にあるいは何とかして最終的に手に入る類のものが、手に入らなかった。そういう人間として生まれてきてしまった。他の人と比べて、初めから【持っているもの】が少ない人間だった。

そんな人間である私が、なお一層の【手放し作業】を進めていくのかと思ったとき、ある種の死の恐怖と敗北を感じた。あくまでも、ある種のとか何かしらのという捉え方しかできないけれど、何か崖っぷちに立たされて終わってしまったような、あるいは一線を踏み越えて後戻りできなくなるような、己の身と世界観が固まる恐怖に襲われた。

けれど私は幼い頃から、天国ってどこにあるのだろう?とか、死ぬって何だろう?とか、ずっとずっと問いかけてきた。

その問いかけの気持ちにもう素直になるべきだ、なっていいのだと、思った。それがお前の道だし、そうするより仕方ないのだと。

教会へは二度と行かない。教会では私の学びたいことなど何も学べないことくらい、過去の忌ま忌ましい経験から知っている。

ただ私は…、キェルケゴールに出会えたというその一点においてだけは、恐ろしくラッキーな人間だと思った。

私は…、バカげているかもしれないけれど、神を追いかけると同時に死ぬまでキェルケゴールを追いかけたい。キェルケゴールの言葉を通じて、キリスト者になるとはいったいどういうことなのかを、少しずつ少しずつ学びたい。

たぶん私はキェルケゴールのことを愛したいのだろう。同じ人間として、重なる部分、共感できる部分がとても多い。正直な気持ち、彼がいなければとっくに棄教していただろうし、私自身がもはや自殺という形で自分を棄てていただろう。

愛せないこの私がまずは人間・キェルケゴールを少しだけ愛せるようになることで、そこからイエス・キリストへの愛と感謝を育てることはできないものだろうか。人間という次元からちょっとずつ始めて、ちょっとずつ階段を昇っていくことはできないだろうか。

その「まずは」とか「ちょっとずつ」をこなしていくことが、何よりも大切なんじゃないかとぼんやり考えている。下手なりに。