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僕と教授がふたりして森へ出かけ、やれ昆虫採集だの野鳥観察だのをしている。

 

「博士、これで手を洗ってください」

僕はレイノルズ教授の手が土埃で汚れているのを見て、水筒を差し出す。

「ああ、悪いね、ありがとうマリオ君」

「マリオンです、マリオン」

教授は翡翠の指輪を外して右手、左手と洗い、指輪を右薬指にはめ直す。5月初旬の爽やかな晴れの日…にもかかわらず教授は黒のコートに黒の山高帽姿で、肩まで伸びた黒髪は相変わらず暖簾のように顔半分を覆っている。

「いやあ、今日のような日にはサンドイッチと揚げ芋と林檎のジュースが似合う。持ってきて良かった。遠足気分だ」

教授は両腕を空に突き出して伸びをしてから地面に腰を下ろし、昼食の入った紙袋をリュックサックから取り出す。

「もうお昼の時間になりましたか。じゃあ僕も」

「君は何を持ってきた?」

「昨夜の残りです。ラザニア」

僕はショルダーバッグの前ポケットからフォークを取り出そうとする。

「何。私のサンドイッチと交換しないか」

「僕の名前をフルネームで覚えてくださるのなら、交換してもいいですよ」

「ならやめる」

レイノルズ教授は瓶入りの林檎ジュースをラッパ飲みする。教授のブーツのほどけた紐の上を、黄色いテントウムシが這う。

「なあマリオン君」

「はい、何でしょう(やっと覚えたか!)」

「君はアイベックスという動物を知ってる?」

「いえ、」僕はラザニアを頬張りながら答える。小鳥のさえずりが耳に心地よい。食べ終えたらこのまま眠りにつけそうなほどだ。「初めて聞く名前です」

レイノルズ教授は冷えて萎びた揚げ芋を口に運ぶ。そんなもの美味いのかと僕は教授の味覚・触覚・嗅覚を疑ったが、僕だって冷えたラザニアを喰らっているのだから偉そうなことは言えない。

「アイベックスはヤギの仲間で、主にアルプス山脈に多く生息する動物なんだけどね。今では乱獲によって、頭数が激減してしまったようだけども。化石のような巨大な角が特徴的で、背中のほうに向けて弧を描くように伸びている」

「頭が重たそうですね。僕ならふらつくな」

「確かに、脚の細さを考えると、いささかバランスの悪い体形ではあるかな。ただアイベックスの凄いところは、草や岩塩を求めて、ほぼ垂直な山の斜面にも登るという点なんだ」

「へー。ヤギのくせにね」

「まるで君自身余裕で垂直方向に歩けるかのような言い方だね、それは。君にも

できるの」

「いや無理ですね」

「ヤギをなめちゃいけないよ、マリオン君」

「そうですね、失礼しました」

初夏の風の音と木の葉の擦れ合う音に、僕の声は少しかき消される。教授はサンドイッチを角から頬張ると、ブーツの紐に今も陣取るテントウムシをそっと払いのける。

「真面目な話、君にはそういう対象があるかな」

「対象?」

僕は教授に目もくれず、ラザニアを口に運ぶ。

「急な斜面や崖によじ登ってまでして、手に入れたいものってあるかな。命懸け、ということだけど」

「さあ…、今のところは…」

教授はあぐらをかいて頬杖をつき、僕のほうを向いて微笑む。

「君にもいつか見つかるといいねえ。君が崖っぷちを這う姿を、僕も見てみたい。ああ、もう腹がいっぱいだ」

そう言うと、教授は揚げ芋の残骸を僕のラザニアの上にばらまく。