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マーティン・レイノルズ教授は真っ白でだだっ広い部屋にひとりいる。白過ぎるために、普通の四角い部屋と呼んでよいのかわからない。天井も恐らくあるのだろう。けれどもやはり白過ぎるのとあまりに高過ぎるのとで、丸天井なのか遠く円錐形に伸びているのか何なのか、わからない。レイノルズは天井を見上げながら3、4歩歩く。その足音だけが空間のなかのどこかに当たり、耳障りに反響する。

 

彼にはどうしても思い出せない。確かに、馬車には乗って来た。通りであのがきんちょに呼び止められて、扉を開けたのも記憶している。その後、御者に車を出すよう指示をしたのも、きちんと覚えている。けれどあの通りのどこで、左あるいは右に曲がったのか、その後に目にしたはずの景色はどんなものであったか、ここに来るまでの経路がほとんど思い出せない。馬車に揺られているあいだ、寒かったのかそれともちょうど良い塩梅だったのかも、体自体が忘れてしまったかのようだ。

 

とりあえず床に座ろうとすると、部屋の唯一のドアが開く。古めかしい金のドアノブが、ギギギギと音を立てる。ドアの向こうには農夫姿の男が立っている。男が部屋に入る。

「これはこれは博士、長旅ご苦労でござんした」

農夫は歯を見せてニカッと笑う。前歯が1本欠けている。皺だらけの白の長袖に、あちらこちら糸のほつれ出たベージュ色のベスト。長靴には泥と葉っぱがへばりついいている。

レイノルズはあぐらをかいたまま、山高帽を取って会釈をする。

「座ったままで申し訳ない。君の言うとおり長旅だったのか、何だか腰が痛い」

「いやいやお好きなように、構いませんぜ。わしゃあセルゲイと申します」

「どうも、セルゲイさん」

キュイイイーーーと弱々しい鳴き声を上げながら、ドアが勝手に閉まる。

 

「さてと、博士」

セルゲイは両手をこすり合わせて切り出す。

「まずはその翡翠の指輪をいただけますかな」

レイノルズははっと目を見開き、反射的にコートの前を合わせ、壁へ後ずさりする。

「それは困る、これは私が博士になったときにある方からいただいたもので」

農夫のセルゲイはニヤつく。

「博士さんよ、今うちらが指輪を没収したとて、お宅の誇りとやらまでは没収されませんぜ。まあ、その後その誇りをお捨てになるかどうかっちゅうのは、お宅さんご自身が決めることでさあね」

そう言うと、セルゲイはあかぎれだらけの手をレイノルズの顔の前に突き出す。レイノルズは山高帽を乱暴にかぶり、右薬指にはめた翡翠の指輪を外し、目を合わせることなく農夫に手渡す。

「毎度あり。ご協力ありがとうござんした」

セルゲイはよれよれのベストのポケットから小さな巾着を取り出し、そのなかに指輪を収め、ドアへと向かう。

「今後は博士から旦那ですな。あと1時間もすれば夕飯ですぜ、旦那。わしがお持ちしますんで、ここでしばしお待ちを」

セルゲイは一礼をすると再び歯をむき出しにして笑い、ドアの向こうへと消える。金のドアノブがブルンと跳ね上がる。