死に色の夢+これからどう生きていけばよいのか

ここ1週間、心身ともにとても調子が悪い。

これを読んでくださる方にしてみたら、「そりゃ、飛躍し過ぎでしょう」と思われることだろうけども、自分、そもそもこの世に生まれてきてはいけなかったんじゃないかと。少なくともこの20数年間は、そんなことを毎日のように漠然と考えながら、そしてそんな考えを持つに至ってしまった自分を何とかなだめすかしながら、それこそ何とか生存してきたんじゃないかなと(振り返ってみて)思う。

三者の人々は、当然、この「振り返り」をしない(なぜならこれは私ひとりが私ひとりで抱えてきたことだから)。だから、そんなの飛躍に過ぎるだろうとか、大袈裟だとか、もっと明るく楽しく前向きにとか、恐らくその手の反応の仕方をするだろうと思う。

 

自分には、頻繁に想像する景色と、理想の自己像があって。

例えばそれは、我が愛しのキェルケゴールも一度は抱いた、「田園風景広がる地方の牧歌的な環境に身を置いて、信仰について考える」ということであったりする。おこがましいけれど、そういうところだけは、自分はどうもキェルケゴールに酷似している。

ただ、キェルケゴールと違って自分が夢に見る牧歌的風景というのは、始まりへ向けての始まりではなく、終わりに向けての始まりの姿であるように思う。私ひとりがそこにいて、私ひとりで空を見て、私ひとりで何か楽器を奏で、私ひとりで小川の流れを見ている。

陽射しはうららかで、すべてがとても穏やかで、よくわからないけれど「何かが止まっている」感じ。そのまま景色を切り取って、額縁に入れて飾れるんじゃないかと思うくらい、すべてが満足して止まっている。

こういうのってやっぱり、死にたいってことなんじゃないかなと思う。もうこれ以上、苦しみたくないという。

いろいろね。振り返りたくなくても振り返ってしまうことは往々にしてあるもので。その振り返りを重ねていったら、やっぱり自分みたいな者はどうしたって、「生まれてくるべきではなかった、人と関わるべきではなかった、一日でも早く行って(逝って)しまったほうがいいだろう」という結論を出してしまいがちになる。

まあ、人と関わるべきではなかったと言っても、大切な友人はいるし、尊敬する学者さんもいるし、出会いは決してムダではなかったのだけどね。自分としては、その人たちが元気でいてくれさえすれば、もうホント、他に大したことは望まないのだけど。だって、所詮は「この世」じゃないの……。自分は、もう、そこには関わりたくないのよね。社会がどうのとか、口だけの支え合いとか思いやりとか、(社会)人としてどう生きるのが正しいんだとか、そういうことは、もう、いらない。大切な人たちのことだけはきちんと頭と心に置いたうえで、ひとりになりたいと思う。