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「お義父さん、今、何と?」

マーティン・レイノルズの背中の筋肉がビキッとひきつる。硬いマホガニーの椅子に腰掛けたまま、動けない。

「ジュゼッペ。封蝋が欠け始めているから、作り直させなさいーーー今、私が言ったとおりだよ、レイノルズくん」

ヨハンネス・ニールセン元中将は使用人のジュゼッペに封蝋を手渡す。ジュゼッペはレイノルズとニールセン中将とのあいだに流れていた空気が中将のひとことで一気に固まったのに怖じ気づき、封蝋を受け取るなり一礼してそそくさと書斎を出、階段を降りて行く。

ニールセンは机の上に置いた未使用の便箋数枚を角を揃えてまとめ、音も立てずに引き出しにしまう。3階にあるこの書斎からは、旧市庁舎分庁跡地に建てられたボウステン資料館の尖った屋根が見える(ハンス・ボウステンは17-18世紀ヴィレホウリウ王国時代の作家。首都スキャルケイルの特別自治区制を求めた運動の主導者でもある)。ニールセンは煙草をくゆらせながらしばしのあいだその屋根を眺めたのち、立ち上がっておもむろにレイノルズに向き直る。ただし、目を合わせることはない。

「ですがそれは婚約前にすでに話し合いでーーー」

マーティン・レイノルズはうろたえて髪をかき上げるが、翡翠の指輪に髪の毛が数本引っかかり、腕を下ろすと同時に髪の毛がプチッと根元から抜ける。思わず反射的に心のなかでキャッと叫ぶ。指輪と指の隙間に絡まった髪の毛1本を、震えるもう片方の手で引き抜く。

ニールセン中将はその冷徹な青い目を壁の絵に向ける。まるでレイノルズを視界に入れず、飛び越すかのように。

「私はね、レイノルズくん。私自身は当時まだ子どもだったけれども、あのとき君にも話したように、父が特別自治推進派の後継グループの押さえ込みに尽力した軍人だったのだよ。陸軍であれ海軍であれ、私たち軍人は国王の命令とあらば従わざるを得ない。そして個人的にいっても、父は残留派だった。スキャルケイルは王国から離れるべきではないと。私も残留は正しかったと考えている。一方、君は特別自治推進派の家系の出身だね。最急進派と言っていい。先頭切って活動していた、あのアヴァリエ派だ。君を含め、哲学者や文学者、その他もろもろの逸材を輩出してきた家系だけはあるね」

「僕はこう見えても政治には全く……」

「そこは問題ではないんだよ、レイノルズくん。君が問題ってわけじゃないんだ」

「それならなぜ」

ニールセン中将は椅子に腰掛けると、レイノルズの顔を真正面から覗き込む。ふたりが今日、顔を突き合わせるのはこれが初めてである。

レイノルズは、短く整えられた義父の白髪混じりのブロンドの髪を見て、この1年半で義父がずいぶんと年を取ったような印象を受ける。ニールセン中将は右の眉をつり上げ、怒りに満ちた目で答える。

「アヴァリエ派の末裔のなかには、後年、私の父を殺害しようとしていた小集団があった。君には黙ってきたけれども、父が病気で亡くなるつい数年前のことだ。彼らは父のもとに爆弾を送りつけてきた。ごくごく小さな爆弾だったが、父の代わりに小包を開けた使用人の男性が、運悪く爆発によって指を切断した。今私が雇っている使用人のジュゼッペが、その男性だ。そしてその小集団のなかに、君の身内にあたる人間がいた。ひょっとすると君すら詳しい話を聞いたことがないかもしれないが、世代的には私より君に近しい人だ。今回、改めて調べさせてもらったよ」

両目を大きく見開いたまま固まってしまったマーティン・レイノルズの頬に、ニールセン中将はそっと右手を伸ばし、悲しげに微笑む。

「マーティン。これでも私は1年半、娘と君の幸せをいちばんに考え、持ちこたえてきたつもりだよ。けれども、申し訳ないーーー娘とは別れてくれ。離婚してくれたまえ」

涙がレイノルズの頬を伝い、ニールセン中将の右手を濡らす。