大号泣(ドライアイには好都合)

今日は午前中から大号泣いたしました。

 

私にとってキェルケゴールって、宝石なのですよ。

世の中に向けては決して目立つことはないかもしれないけど、私のなかでは確実に『定点』となって、私が今こうして生きていることを支えてくれる、たったひとつの宝石なのです。

 

尊敬する学者さんに、私のキェルケゴール熱を褒めていただいたのも、本当に、本当に、嬉しかった…。

 

だって私はこんなにちっぽけな人間なのに、数十年ものキャリアのある一流の学者さんが、声をかけてくれたんですもん。

 

大学で哲学を学んで、哲学者になって、第一線で活躍し続けるということがどれだけ大変なことであるか。

 

それと比較したら、私なんてまぢで怠け者で、言い訳ばかりで、そりゃもう密度の低い生活を送っておりますよ…。

 

だけどそうやって誰かに声をかけてもらうこと、褒めてもらえることが、どれだけ励みになることか。

 

誰だってそうだよね。自分の好きなこと・大切なことに対して、

『そんなの金にならないから時間のムダ(笑)』

とか

『そんなことやってて、あんた気楽でいいね』

だなんてことを言われて、胸張って喜ぶ人はいないだろうと思います。

 

…恥ずかしいからその学者さんには言わなかったけれど、私がキェルケゴールを好きになった理由。

 

私はたぶん、美的・倫理的・宗教的実存っていう3つの段階を地で経験したんだと思うのです。もちろん実際には宗教的実存なんて凄いものは私には成し遂げられないから、3つのうちの『2.1』くらいしか経験していないのだろうけど。

 

それでも、これまでの人生があまりにも辛すぎたという事実は消せないし、その辛さがあってこそ、この諸段階というものを私なりに体験できたのだと思うのです。

 

だからね。

キェルケゴールのことは、死ぬまで一生、手放しません。感謝という言葉では足らない。信仰とキェルケゴール=私の命の源泉。

 

それから、大変だけれども、現象学とか存在論なんていうのもかじり始めました。

 

大学院進学は健康上の問題があって、考えてないです。というか、私は私自身の人生のために『これら』をやっているので、はいカリキュラムどおりに勉強を遂行できましたとか、はい期限どおりに論文提出ができましたとか、もう、そういうこととは無縁の世界で、自由にやっていきたい。無理はせずに。

 

私は別に『哲学向きの地頭』は持ってない。『それどころか』って感じ。でも、この17年間くらいもがき苦しんできたことが、私の内面で形を持ち始めたっていうのは、紛れもない事実です。

 

そんなふうにしてキェルケゴールという人に出会えたこと、キェルケゴールをここまで大切に思えることに目を向けたとき、もう私は自分自身の人生について何の悔いもないです。本当に『あ、これが定点なんだな』って、感じます。