キェルケゴールの『ギーレライエ反省』

キェルケゴールの日記のなかでも最も有名な箇所のひとつ、『ギーレライエ反省』と呼ばれる部分を繰り返し繰り返し読んでいる。

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私はつい先日、英語版キェルケゴール日記集を中古購入したのだけど、いかんせんこちらは全集ということで分厚い&重い!

なので今はサボりにサボって、薄ーい縮約版のほうで読んでいる(※縮約版についてはこのブログの最後に情報を載せておきます)。

つくづく思う。

自分のような人間にとって、キェルケゴールのような人に出会うというのは、やはり(数十年めぐりめぐっての)必然だったのだなと。

私はコンセプトとか体系とか雛型というものがどうも好きになれない。イズム(主義)というのも好きになれない。

もちろん、大枠をつかんで物事を理解することは大切だし、そのためのざっくりとした定式化も大切。

けれど。

私が私として『生きていく』ために、その枠組みや形式、体系は真に価値あるものとして役立ってくれているだろうか?

いや。

むしろ枠組みのなかに安住して、枠組みのなか制度のなか一般見解のなかでダラけて、自分を丸ごと放棄している自分がありありと目に映るようだ。

枠組みが好きな人もいるだろう。定式に沿って生きているほうがムダがないのは確かだ。そういうスリムでスマートな生き方のほうが良いと思うなら、そのほうが『成熟した大人、立派な社会人』だと考えるなら、それはそれでいいと思う。

でも。

それは私じゃない。私の人生じゃない。

私は周囲の人間から何度となく『未熟だ』『ガチで疲れる、重い、うっとうしい』と批判され、バカにされ、見下され、笑われてきた。

これから先も、死ぬまでバカにされ続けるだろう。見下されるだろう。積み重ねてきた見えない努力を暴言暴力によって再び粉砕されもするだろう。

それでも、私は16、17の頃から、キェルケゴールのギーレライエ反省に書かれてあるようなことを考え続けてきた。そしていまだに答えや絶対的な道は見つかっていない。だからこそ、再び考え続けて深く重く悩み続けていくのだ。

未熟と言われようとガチでウザいと言われようと結構。むしろ、私の理想の生き方を言い当ててくれて、感謝している。なぜなら、私は死ぬまで、いや、死ぬそのときにすら、完成形にはなり得ないのだから、未熟であって当然なのだ。それに、私の人生はその人たちとは何の関わりもない。全くもって、関係がない。私はその人たちのために生きているわけじゃない、そんなこと、あるわけがない。

少なくとも私は、自分の人生の表面だけをさらって、死ぬときにそれで『いい人生でした』などと言い残すような、薄い浅い生き方だけはしたくない。苦悩、後悔、怨念、絶望、怒り。すべてを味わいすべてに混乱して生きていくほうが、どう考えたって私らしいのだから。

 

縮約版キェルケゴール日記集

The Soul of Kierkegaard

Selections from His Journals

Dover Publications

ISBN 0-486-42713-7

 

↓こちらは他出版社から出ている別ものですが、内容的には大差ないと思われます。上に紹介したものが検索でヒットしなかったので、代わりにご紹介させていただきます。

 

Papers and Journals: A Selection (Penguin Classics)

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