元気ない10月の空のもと

『世の中では一般的に~』

『社会では、~するのが正しいこと・良いこととされています(なので私はそれを実行しています)』

 

こういうことを平然と言える人というのは、『恐らく』平均的に幸福な者であり、そして最も不幸かつ空恐ろしい存在でもあるように思う。

 

この世に生きることの苦痛。

 

この世で生き『なければならない』ことの悲哀と、虚しさと、混沌と、痛みと、『跳べない』ことへの諦念と、涙と、それでも手放し得ぬ、永遠へと引き連れられ吸い込まれることへの憧れ。

 

そうした諸々の人生の苦難すべてを、自分のものとして感じ取り、引き受けない人々は、そのまま転ぶことなくどこにも引っかかることなくスムーズに生きていける。泥たるものを知らぬままに、スムーズに生き、気がついたら死ぬ。

 

ただしそれが端から見て本当に幸せな人生なのかどうか、あるいは逆に不幸な人生なのかどうか、100%以上の力でもって断言する自信は私にはない。

 

なぜなら私はあくまでも私であって、私が最終的に判断を下すのは、私ひとりの人生についてだから。

 

だから、他人の人生の最期が最後の最後において『真に』その人にとってバラ色となるか地獄図になるかは、私にはわからないし言えないし、地獄図を和らげる助けを私がすべきかどうかもわからないし、その人のひとつひとつの判断・決断がその人にとって本当に良いものであったかどうかは、その人が内面で答えを出すことだから、私はそこにはもはや興味はない。

 

私は私、あの人はあの人、この人もこの人。

 

冷たいようだけども、そうやってスパッと一線を画して私は私ひとりで進んでいったほうが誠実だと、今では思える。

 

今朝のこのスッキリしない空のように、モヤモヤとした嘘の共感・思いやり・気遣い・推し量りはやめて、私は私ひとりの抱える課題について、熱く真摯に取り組めたらと願っている。