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図書館司書の職を得てひとり暮らしを始めたマリオンが、深夜、酔って帰宅する。

(どうやらーーー意中の同僚の女の子に見事振られたらしい。愚痴を言える男友達がいて、パブで酔っ払えるだけ、ましなのかもしれない。)

マリオンは鍵を玄関脇の机の上に放り投げると、朝からデカンタに入れたままの水をグラスいっぱいに注ぎ、喉を鳴らして飲み干す。5月初旬の夜にしては生暖かく、部屋の空気がむっとしている。ガラス窓を開け放つと、虫の鳴き声と一緒に柔らかな風が入ってくる。マリオンはフンとすねて床に胡座をかいて座り込み、それから思い切り大の字になって寝転がる。頭の近くには、数日前に買った何冊かの書籍が『積ん読』状態で置かれている。彼はいちばん上の書籍を手に取るものの、酔いに負けてそのまま眠りに落ちてしまう。

 

朝の7時過ぎ。マリオンは小鳥のさえずりで目を覚ます。足もとにだけ朝日が当たって、熱いし暑い。再びデカンタの水を飲もうとするも、考え直して台所へ行き、蛇口をひねる。頭から水を浴び、顔を洗い、口をすすぐ。いつもならちゃんと歯を磨く、それに目玉焼きでも焼いて、黒パンの上に乗っけて食べようとも思う。けれどこんな気分じゃ全くやる気が出ない。昨晩は飲んで喋って歌いまくったから、喉が痛いやーーーマリオンは食器棚に手を伸ばすと、棚の奥にある生姜飴の袋をガサゴソ引っ張り出し、飴をひとつ口に放り込む。

 

寝室に戻り、濡れた前髪をタオルで拭き、ベッドに身を投げる。いいやどうせ今日は土曜日だから、そんなふうに自分に言い訳をしながら、ゴロゴロし始める。床に積ん読状態だった書籍に手を伸ばし、1冊、1冊ポンポンとベッドの上に投げる。そのうちの1冊は旅行書で、夏休みの計画を立てようとして買ったものだったーできれば、好きだった女の子を散策にでも誘うつもりで。

 

マリオンは生姜飴を口のなかで転がしながら、そして相も変わらずぶつくさとすねながら、旅行書のページをめくっていく。とある田舎町の小さな庭園の絵が、目に留まる。その絵を見つめているあいだ、生姜飴が口のなかでガリッと音を立てて砕け始める。マリオンは何だかよくわからないが、懐かしいような何かが込み入ったような気持ちに襲われる。

 

旅行書を脇にのけ、他の書籍に目をやる。そのうちの1冊は哲学書だった、これから先、もう当分は、勉強しないであろう哲学。マリオンはベッドの上で腹ばいになり、脚をクロスさせ、絵本を眺める子どものように鼻唄を歌いながらページをめくっていく。

 

なぜなのかわからない。ふと、においを思い出す。レイノルズ教授の髪の毛のにおい。あの日、博物館で再会して紙入れを渡してもらって以来、博士には会っていない。似た姿の人ならいくらでも見かけた、今でも山と見かける、博士らしき人が街を歩いているのを見たよという話も、ちょくちょく耳にする。でも、本人には、あれっきり、全く。  

 

マリオンの目に、不思議な景色が浮かぶ。確かどこかの庭園か、遊園地のようなところ。地面の砂は黄色みがかっている。自分は園内を、誰か大人の男の人と歩いている。その人は自分の手を取り、自分のほうを愛おしげに見て、自分の歩幅に合わせて歩いてくれている。子どもだから、とても背高のっぽに見える。そしてその人は、帰りに飴を買ってくれる。今、舐めているような、きつい生姜味とは違うのだけど、たぶんフルーツ味に近い、赤や黄色の飴。

 

けれど景色はそれだけだった。そこから先は、何も出てこない。プツリと小さな音を立てて、遠くにしぼんでいく。

 

ま、いいかーーーマリオンは凝った首と肩をほぐしながら、ベッドから下り、再び台所へ行って生姜飴をもうひとつつまむ。寝室に戻る途中、マンテルピースの上の鏡に映った自分の姿に立ち止まる。いい加減、床屋行かなきゃな。マリオンは大あくびをして、伸びきった艶のある黒髪をわしゃわしゃと両手で掻きむしる。