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スキャルケイル市内。馬車駅の前に、レイチェルはひとり立っている。19世紀ももうすぐ終わりに差しかかり、このスキャルケイル市内だけでなくビレホウル王国全体に、いくつかの鉄道路線が開通しつつある。この馬車駅から歩いて7、8分南へ行ったところにも、レンガと鉄骨造りの真新しい駅がつい最近建てられたばかりである。

 

良かった、全然景色変わってないのね、レイチェルは独りごちてほっと溜め息をつく。クリーム色の羊毛のセーターとロングスカートに、淡いベージュ色の薄手のコートを羽織り、首もとには金の刺繍をほどこしたワインレッドのスカーフ。同じ柄のラベンダー色のスカーフとどちらにしようか悩んだけれど、……自分が気に入るかどうかよりも、ただ褒めてもらいたい。足もとはベージュのフラットな靴。あの場所にかかとの高い靴は似合わない気がする……。

 

恐らく、道に迷う心配はない。ほとんどすべて覚えている。閑散とした所だから、このまま真っ直ぐ歩いて行けば、そこここに小さな石造りのおうちがあって、お店も数軒、目印みたいに建っているはず。

 

期待と予想どおり、レイチェルは一度も迷うことなく、待ち合わせ場所にたどり着く。けれどそこから先は伏し目がちに、しずしずと、一歩一歩遠慮がちに歩く。なぜなら、もう、見えているから。

あと百メートルも歩いた先には、その人が立って自分を待っている。レイチェルは最後の数メートルでようやく顔を上げて、安堵と緊張がないまぜになった笑顔で、その人と向き合う。

 

『…お待たせ』

 

そこにはマーティンが立っている。レイチェルと同じように、クリーム色のロングコートに、中はウェイストコート。手には赤いタータンチェックの毛布のようなものを持っている。マーティンは微笑む。

 

『来てくれて、ありがとう。見事にかぶったね、服の色』

 

レイチェルはマーティンの目を見ると、恥ずかしげに微笑む。

 

『風が冷たいかなと思って、ブランケットを用意したよ。どこかで座ろう』

 

※※※※※※※※※※※※

 

『ずっと隠しておいてくれて、ありがとう。ちっとも気づきやしないんだよ、あいつ。元気にしてる?就職は?』

『元気よ。バカみたいに能天気で元気。図書館司書の仕事してる。最近、職場の女の子に振られたみたいで、ヤケ酒してたけど』

『振られたんだ』

レイチェルとマーティンは顔を見合わせて笑う。その後、お互い見つめ合ったまま、しばらく沈黙が続く。そしてふたりはほぼ同時に、それぞれ反対の方向に目を反らせる。マーティンは一度うつむいたのち、顔を上げてレイチェルに声をかけようとする。レイチェルもマーティンのほうに向き直ったとき、ふたりのあいだに北風が吹き抜ける。 

 

マーティンの黒い前髪が風になびき、いつも隠れている頬が現れる。レイチェルは、マーティンの左頬に数センチほどの傷とかさぶたがあるのを目にする。

『あなたどうしたの、その傷』

よく見ると、指先と手の甲にも小さな切り傷のようなものがいくつかある。レイチェルはマーティンを凝視する。マーティンは前髪を押さえて笑う。

『ちょっと、事故った。驚かせちゃったね、ごめん』

レイチェルはその手をマーティンの頬に伸ばそうとする。けれども、マーティンはそっとレイチェルの手を取り、降ろす。

 

※※※※※※※※※※

 

それから数十分のあいだ、ふたりは隣り合って座り、沈黙を挟みながら言葉を交わす。レイチェルの夫の仕事のこと、義理の母親のケガが良くなったこと、娘のアイリスが声楽科の大学院へ進学しようと考えていること。話の内容はそんなふうに、専らレイチェルの家族のことだったけれど、マーティンはただ穏やかに笑顔で聞いている。

 

ふたりの目の前にはマリーゴールドが咲き乱れ、少しばかりせわしなく風に揺れている。マーティンは立ち上がると、1本、1本ゆっくりと摘み、小さな花束を作る。その姿を見て、レイチェルも立ち上がる。

 

『これ』

マーティンは脚を肩幅に開いて、それから少し芝居がかった様子で、両腕でマリーゴールドの花束をレイチェルに差し出す。

 

レイチェルは花束を受け取ると、吸い寄せられるように、マーティンの胸に顔をうずめる。レイチェルは小声で訊ねる。

『私、綺麗?』

マーティンは腕をレイチェルの背中にそっと回し、笑顔で答える。

『綺麗です。昔と何ひとつ変わってません』

風が吹いて、レイチェルはマーティンの髪の毛のにおいを吸い込む。

『お父さん、元気にしてる?』

マーティンが訊ねる。

『僕はね、恨んでなんかいないよ、君のお父さんのこと。むしろ感謝してる。お父さんのおかげで、これから新しい仕事に取りかかることになったんだ。だから君も、お父さんのこと、憎まないでほしい』

レイチェルはマーティンの胸に一層深く顔をうずめて、彼の背中に腕を回す。が、何の感触もない。自分の背中に回されているはずの彼の両腕も、木の板切れのように、硬い。胸の鼓動を聞こうにも、風でかき消されて聞こえない。レイチェルがマーティンの顔を見上げようとすると、マーティンは真っ直ぐ遠くを見て言う。

『僕の顔を見ちゃいけない』

レイチェルはマーティンをぎゅっと抱きしめようとするが、先ほどと同じで何の

感触もない。マーティンは穏やかな笑顔のまま、遠くに見える小さな家々をじっと見つめて、言葉を続ける。

『今日は来てくれて、ありがとう。とても綺麗だよ。僕は一生、君のものだ。君も一生、僕のものになってくれるかな』

レイチェルは小刻みに繰り返しうなずく。

『ありがとう。それじゃ、またね』

 

突風が吹く。冷たい北風にふたりのコートが音を立ててはためく。風はますます強くなり、小さな竜巻のように砂埃が舞い上がる。レイチェルは目の痛みで一瞬前が見えなくなり、マーティンにしがみつく。けれどまるで空を捕らえているだけのようで、彼の体温も何も感じない。

 

風がやむ。レイチェルは恐る恐る目を開ける。目の前には誰もいない。金銀、うすいピンクや水色の砂埃がきらきらと宙を舞い、彼女だけがマリーゴールドの咲くこの空き地の真ん中に立っている。

 

レイチェルは地面に落ちたマリーゴールドの花束を拾う。そして砂埃に半分埋もれて光り輝くものを見つける。砂をよけると、そこには翡翠の指輪がある。レイチェルは指輪を握りしめ、青空を見上げると、そのままひとり地面に泣き崩れる。