1900年、ビレホウル王国の首都、スキャルケイル。レイチェルとレイチェルの夫・ピーターが、自宅応接間のソファに肩を並べて座っている。季節は11月の半ばを過ぎ、外はしとしとと雨が降っていて、自宅のなかはどの部屋もしんと静まり返っている。応接間の壁時計が夕方4時を刻む。ピーターは前かがみの姿勢で膝の上で両手を組み、静かに話を切り出した。
『籍はこのままでも、どちらでもいいと思うよ。ただ、僕と一緒にずっとこの狭い家にいるより、もうあちらへ越した方がいいと思う……これは法律的なことじゃないから。お義父さんの遺品整理にしたって、あれだけ大きな邸宅だ、僕が手伝うにしてもハイ1週間2週間で済みましたってことにはならないだろうし、何よりも君には行ったり来たりが大変だろう』
『あなたは仕事で忙しいんだから、遺品整理のことは大丈夫よ、私ひとりで……』
『僕がそうしたいんだよ。何も気にしなくていい』
『じゃあ。ありがとう。そこはお言葉に甘えて』
レイチェルは寂しげに微笑むと、家事で爪先のささくれ立ったかさかさの手をぼんやりと眺め、静かにさすった。ピーターはその仕草を見て、レイチェルの手に自分の手を重ねる。
『君は』
ピーターは遠慮がちに言った。
『そんなには幸せそうには見えなかった。僕といたこの20年のあいだは』
『そんなこと』
レイチェルは思わずピーターの言葉を遮る。ピーターは小さく微笑む。
『嘘はつかなくていいんだよ』
『でもあの子たちにはどうやって説明すれば』
『ふたりはもう20歳過ぎじゃないか。大丈夫、理解してくれるだろうよ。君にとっても、ちょうどひと段落つくいい時期じゃないか。それでいいんだよ』
『だけどそれであなたは…』
今度はピーターがレイチェルの言葉を遮った。
『君はまだ、いやずっと、あの人のことが忘れられないんだよね』
沈黙。
『どうせ嘘をつくならそこで嘘をついてほしかったな』
ピーターはもの悲しげに笑った。レイチェルはスカートのプリーツにしわができるほど、膝の上でぎゅっと拳を握り締めた。
『ごめんなさい。あなたにとっても楽しくなかったでしょうね、私の父に押し付けられての結婚だったから』
ピーターは穏やかな笑顔で首を横に振る。そして最後の最後に、堰を切ったように打ち明けた。
『僕は君と出会えて幸せだったよ。そう、幸せだった。今でも幸せだ。君にも、君のお父さんにも、感謝してる。でも僕には君をハッピーな気持ちにしてあげることが叶わなかった、君とのあいだに分厚い壁があるような気がしてたんだ、ずっと。そこを乗り越えられなかったのは、僕自身の力のなさゆえだ。だから、ごめん』
ピーターはレイチェルの頬に一度だけ口づけをすると、彼女の手を取って目を覗き込む。
『別居しても僕はここにいるから。気が向いたときに遊びに来てくれればいい。来週以降のお義父さんの遺品整理も、迷惑でなければ一緒にさせてくれるね?』
レイチェルは目に涙を溜めて、うなずき微笑む。