tête-à-tête 32

やっぱり来るんじゃなかった、かな……。

 

ホワイト・ヘイヴン市内の繁華街にある酒場、ブラック・マスト。ちょうど深夜0時を回ったところ。店内は煙草の煙と人いきれと大きな話し声とで充満し、グラスのぶつかり合う音がマーティンのこめかみに突き刺さる。

 

とびきり濃いコーヒーにするから、そこで横になって待っててね。

 

マーティンはかつてレイチェルと暮らしていたとき、偏頭痛で寝込むたびに彼女がコーヒーを用意してくれたことを思い出し、つい弱気になった。店内のあちこちにある照明器具から放たれる眩しい光のせいで、吐き気がしてくる。

マーティンは入店してすぐに頼んだ1杯のビールを片手に持ったまま、店のいちばん奥でひとり壁に背をもたせかけている。入口近くへ移動すれば、人の出入りで多少は外の空気が吸えるのはわかっていた。けれどもあまりにアタマがガンガンして、たとえ壁伝いでも歩く気にはなれなくなっていた。マーティンはそのままずるずると壁に背中を沿わせ、床にしゃがみ込んで目をつぶった。

数秒後、目を開けると、目の前にグラス1杯の水を差し出す手があった。見上げると、ひとりの青年がマーティンとほぼ同じか少し高い目線でしゃがんでいる。青年はグラスをマーティンの顔の前にぐっと突き出して言った。

『ほら、これ。吐くなら店の裏のゴミ置き場で吐け』

マーティンはビールを床に置き、冷たい水がなみなみ入ったグラスを受け取ると、青年に礼を言った。青年はマーティンが悪酔いしたと勘違いしたのか、少しばかり大人ぶった調子で言葉を続ける。

『塩梅ってものを忘れんなよ、でないと女を口説く時間を失うぜ』

僕はそのために来たんじゃないんですけど、マーティンは心のなかで弱々しくつぶやいた。冷たいグラスをこめかみに交互に当てながら、彼は呼吸を整え、思いつく限りの短い言葉を連ねる。

『ありがと。調子が思わしくない。帰るよ』

自分の声までもが周りの騒音同様にアタマに響き、こめかみ周辺がムカムカ、キューッとしてくる。マーティンは悪心と悪寒をこらえて立ち上がった。青年は苦笑した様子でマーティンの肩に腕を回す。

『悪いな、看病できず。俺、女を連れてきてるから、お前につききっきりにはなれん』

青年はマーティンを支えながら、数メートル離れたところでずっと様子を見ていた女性に向かって手を挙げ、OKのサインを出した。

『とりあえず、店出ろ。なんとかひとりでドアのところまで歩けるな?』

僕酔ってませんから、それでコーヒーが欲しいんじゃないんですから、それとついでに砂糖もください、マーティンは再び心のなかで脈絡なくぶつぶつと答える。

『なんとか。なんとかします。あ、僕マーティンって言います。マーティン・レイノルズです、どうもありがとう』

青年は一度まばたきをしてしばしのあいだ黙りこくっていたが、やがて明瞭な声で答えた。

『奇遇だな。俺も同じ苗字だ。シリル。シリル・ジョン・レイノルズだ』

マーティンはその言葉を聞いて、ぼやけていた視界と頭が一瞬パッと開いた気がした。思い切ってシリルの顔を真正面から捉えると、シリルもマーティンのほうをまっすぐに見つめていた。シリルは改めて手を差し出す。マーティンは体じゅうがカーッと熱くなるのを感じながら、シリルと握手を交わした。

『俺はここには自分の女連れて、よく来てるから。気が向いたらまた来い。あくまで気が向いたらの話だがな』