tête-à-tête 71

1872年、ビレホウリウ王国、首都スキャルケイル。春。こぬか雨が降り、生暖かい南風の強く吹きつける日だった。午後3時18分。固い表情をしたシリルがひとりヤンセン通りを歩いている。シリルは今日もポール・ソーントン氏の自宅で庭掃除の奉仕活動を課されていた。

人通りまばらなこの閑静な高級住宅街のなかでもヤンセン通りはとりわけ静かで、ほとんどの家では通りに面した出窓は日中でもカーテンが閉じられ、まるで中の様子が見えない。それぞれの戸建てに人が住んでいるのかそれとも出かけているのか外からは全くわからず、昼日中からゴーストタウンのような雰囲気を醸し出している。仕事や子どもの通学事情で他の地区から越してくる人が多いのか、近隣住民同士のつき合いも薄いようだった。

シリルは15sの表示が出ているソーントン氏の自宅に着いた。大人ひとりが住むにしては大きすぎる邸宅だった。この前初めてここに来たとき、『妻は買い物に夢中でいないことがしょっちゅう』で、『たったひとりの愛娘も寄宿舎生活のためほとんど会えない』とソーントン氏は言っていたけれど、実際のところ奥さんもこの家にはほとんど寄りついていないのではないかと、シリルは疑ってかかっていた。

シリルは玄関のベルを鳴らす。するとすぐにソーントン氏が姿を見せた。

『やあ、ご苦労様。今日も庭掃除を頼むよ』

シリルは黙ってうなずくと、ソーントン氏とは目を合わさぬまま室内に足を踏み入れる。

『今ちょうど、趣味で集めている切手の整理をしていたところなんだ。リビングルームのテーブルの上がごちゃごちゃしていて、見苦しく申し訳ない』

シリルは何も言わず、前を歩くソーントン氏に続いて広い廊下を通り抜けていく。廊下の両壁には家族の肖像画、とりわけひとりの女の子を描いた油絵が数多く掛かっており、その子がいったい誰なのかを想像するだけでシリルはめまいを起こしそうだった。

シリルは前回訪れたとき、作業前に脱いだミリタリーコートをリビングルームのソファに置かせてもらっていた。それでこの日も同じように、ソーントン氏のあとをついて部屋に入っていった。

シリルは改めてリビングを見渡した。暖炉にシャンデリアに書棚、何もかもが大きかった。部屋の中央にあるテーブルには、先ほどソーントン氏自身が言ったように、切手と封筒のようなものが山のように積まれていた。そして封筒の山の隣には、バラの絵が描かれた白いアンティークの花瓶が置かれていた。

『すみません。作業中、コートを置かせてもらってもいいですか』

シリルは自分に背を向け、書棚の中身を見ているソーントン氏にたずねた。ソーントン氏はリラックスしきっているのか、シリルのほうには目を向けず、棚の本を入れたり出したりしながら返事をする。

『ああ、もちろんいいとも、』

シリルはコートを脱いでソファに置くと、音も立てずにテーブルに近づいていき、白い花瓶の表面に右手を沿わせた。ソーントン氏はいっこうにシリルのほうを見ることなく、書籍の整理に夢中になっている。

『お恥ずかしい話、妻も娘もいないひとりの日が続くと、どうもやる気が失せてしまうものでね。それでご覧のとおり、書棚のなかもごちゃついたままにしてしまいがちで』

『そうなんですか』

シリルは無表情で答えた。そして花瓶を両手で持ち上げてみた。水の重さも加わって、いささか重たかった。

『お手伝いさんを雇ってもいいんだけども、そんな金があるくらいなら、毎月娘に渡す教科書代や被服費を増やしてあげたほうがいいと、私なりに思っていてね、』

ソーントン氏の話はほとんど独り言になっていた。シリルは中の水をこぼさないよう、慎重に花瓶を自分の胸の前まで運んだ。

『君もきっと、大人になればわかると思うよ。親というのは子どもを授かると、自分の都合なんかよりも子どものために金や物を費やすほうを優先したくてたまらなくなるもんなんだよ。実は私も若い頃は……』

その瞬間、花瓶の割れる音と、床に勢いよく飛び散る水の音とが、強い衝撃とともにソーントン氏の頭上に響いた。ソーントン氏は突然受けたショックでよろめき、書棚のガラス戸に突っ込む形で頬と肩を強く打ちつけた。

徐々に徐々に遠のいていく意識のなか、小刻みに震える手でようやく後頭部に触れると、指先にはベットリと血のりがついていた。ソーントン氏は叫び声どころかうめき声も上げられないほど、強い衝撃で声も視界も何もかもを奪われていた。そして数秒後、後方によろめくと、背中から勢いよく床に倒れ込み、再び後頭部を強く床に打ちつけた。

シリルは床に撒き散らされた花瓶の水と、方々に散った花瓶の破片と、壁にまで届いた血しぶきを見つめた。そして床に倒れ込んだままびくともしなくなったソーントン氏の脚を力任せに一度蹴飛ばすと、ソファの上のコートをひっ掴み、屋敷のように広いこの家を足早に出て行った。