1857年9月2日。ビレホウル王国の首都スキャルケイルにある、ジョンとシボーンの自宅。
午前10時過ぎ。シボーンは夫のジョンが出かけているあいだを狙い、旅行鞄に身の回り品を詰め、ひとり息子のシリルを着替えさせる。
『さあ、出かけるわよ、シリル』
『ど、こ?』
言葉の覚えの遅いシリルは、たどたどしい口調で母親にたずねる。ぼんやり突っ立ったままのシリルの前にひざまずくと、シボーンはシリルの水色のシャツの襟を整えて言った。
『あなたの新しいおうちよ。これからあなたは、ご飯もたーくさん食べられて、あったかいお布団で寝られて、お友達もいっぱいできるような、とてもいいところで暮らすの』
『ママは?』
シリルはシボーンの首に巻かれた淡いピンクのシルクスカーフに手を触れる。シボーンはシリルの頬を撫でて答えた。
『ママも一緒よ。でも、2、3日、お出かけしなくちゃいけないの。すぐに戻ってくるから、心配しないで。さあ、もう時間だから、行きましょう』
シボーンはシリルの手を取り、玄関へ向かう。そして玄関ドアの手前で一度立ち止まると、コートのポケットから紙切れを取り出し、そこに記されている住所を見た。
ハーマン菓子店
ケストナー通り
a28 n64
スキャルケイル市
『風が寒いから、きちんとコート着なきゃね、』
シボーンはシリルに上着を着せ、前ボタンをすべて留めてやると、シリルの手を引いて自宅をあとにした。
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スキャルケイル市内にあるヤンセン孤児院の院長室。午前10時53分。院長のヤンセン氏と養護教員の女性が、シボーンに書類の控えを渡して説明を終える。ヤンセン氏は重厚なデスクの上で両手を組み、書類の一部に目をやりながらシボーンにたずねた。
『最終確認なのですが。お母さんのお住まい、こちらはケストナー通りのa28、n64で間違いありませんね?』
『はい、間違いございません』
シボーンは明瞭な口調で答えた。ヤンセン氏は眼鏡を外すと、無事に手続きが済んでひと安心といった様子でうなずいた。
『それでは、今後は定期的にこちらのご住所にご報告をさせていただきます。シリルくんの毎月の様子を、お知らせするためです。お母さんご自身も、面会にいらっしゃいますか?』
シボーンは表情を変えずにはっきりと答える。
『はい。可能なときは、必ず』
『それは良かった。シリルくんの今後のためにも、お母さんの助けが必要ですから』
『今後とも、どうぞよろしくお願いいたします』
シボーンは頭を深く下げる。養護教員の女性は思いやりに満ちた表情でシボーンの背中に手を添えた。
『それでは、シリルくんのことは、私ども全員が責任を持ってお引き受けいたします、』
ヤンセン氏は微笑んで言った。
『来月以降、お母さんが可能な限り面会に来られることを心待ちにしております』
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シボーンは再び深々とお辞儀をし、旅行鞄を持って院長室を出る。音を立てぬよう気を配りながらドアを閉めると、コートのポケットに入れておいた紙切れを取り出し、端から静かに裂いた。
『ごめんねシリル、』
シボーンは赤いじゅうたんに目を落としてつぶやいた。年代物の家具と油彩画がしつらえられた院長室前の長い廊下には、シボーン以外に人の気配はなかった。シボーンはしずしずとじゅうたんの上を歩き、出口へと向かう。
『お母さんとはもう二度と会えないけど。健康で、優しい子にに育ってね』