『そう。こんな感じで、届かないものなんだよ』
1875年9月、ビレホウル王国の首都スキャルケイルにある、マーティンのアパート。マーティンとレイチェルは暖炉の火の前で向かい合い、互いの足の裏をくっつけて座っている。その日はふたりで昼食を作って食べる予定だったけれど、通りの商店に買い出しに行くなり、どしゃ降りの雨に見舞われた。それで仕方なく勢いで適当な食材を買ってきて、アパートに戻った。ふたりのそばには脱ぎ散らかした靴下と、食材の入った紙袋が転がっている。マーティンは自分の両足をレイチェルの両足にぴったり合わせた姿勢で、届きもしない両腕をレイチェルのほうに精一杯伸ばして説明してみせた。
『僕はひとりっ子で友達も少なかったから、寂しくて僕なりに両親に手を伸ばしてみる。でも、母親も父親も、僕の手を取らない。いや、そもそもふたりとも、その手を引っ込めてるみたいに見える。興味がないみたい』
レイチェルは足の指をモゾモゾと動かして、マーティンの足の指を【からかって】みせ、マーティンに言った。
『おふたりは足を伸ばすことすらしなかったのかしら?こんなふうに、爪先だけでもつながっていれば、子どもは安心するでしょうにね、』
レイチェルは自分の横に転がっていた買い物袋から卵をひとつつまみ、笑って言った。
『ね、知ってる?私ね、ゆで卵を鳥に持って行かれそうになったことがあるの』
『鳥に?』
『そう。高校生のときだったかなあ、同級生の女の子と、ピクニックしてたの。で、さあお外で楽しい楽しいランチだ!って歌いながらお弁当を広げたらね、トンビみたいな鳥が急降下してきて、ゆで卵、突かれそうになった』
レイチェルはけらけら笑った。
『急いで買い物してきちゃったけど。せっかくだから卵のサンドイッチでも作ろうか。お湯沸かしたいから、キッチンお借りしてもいい?』
そう言ってレイチェルが立ち上がりかけると、マーティンはためらいがちに声をかけた。
『レイチェルさんあの、』
『?』
レイチェルはくるぶしまであるスカートの皺を伸ばしながら、笑顔でマーティンの言葉を待った。マーティンは少し顔を赤らめながら、レイチェルを見上げて言った。
『あの僕。サンドイッチはあとでいいから、もう少し、ここで一緒に座っていてくれないかな』
レイチェルはにんまり笑って、再びすぐに腰を下ろした。
『かしこまりました。私もね、あなたの足の親指見てるのが、楽しい。ほら、私と違って、人差し指よりも長いのね』
レイチェルは脚を放り出すと、自分の短い親指を引っ張って笑った。そしてマーティンの隣で体を丸めて体育座りをするなり、彼の肩に頭をもたせかけた。マーティンは遠慮がちにレイチェルの髪に手を触れた。
『私ねマーティン、』
『はい。なんでしょう』
『あなたのためなら、ゆで卵くらい何個でも作るわよ。コーヒーだって、必要な角砂糖の個数を教えてくれたら、いつでも喜んで用意しちゃうんだから』
『あのそれって、』
『もちろん、家政婦じゃあないわよ、レイノルズさま。そりゃまあ、お駄賃くれたらなおさら結構なんでしょうけど、』
レイチェルは相変わらず快活にけらけらと笑って答えた。
『私はあなたのことが好きだから、こうして一緒にいるだけ。楽しいから。それだけ。あなたじゃないとイヤだから。それだけ。あなたが親御さんとの問題を抱えていようといなかろうと、私には気にならない。だから一緒にいさせてね。それとも、お邪魔かしらん?』
マーティンは震える手で初めてレイチェルの肩を引き寄せて、涙目で言った。
『ありがとう。ありがとう。それなら僕のお腹を、レイチェルさんの作るゆで卵でいっぱいにしてください。いっぱいいっぱい膨らまして、僕がカエルみたいになっちゃうまで。よろしく、お願いします』