『眠れないから床で転がって遊んでてもいい?』
『服が汚れるからよしなさい。こっちでちゃんとベッドに入って寝るか、自分の部屋へ戻るかしなさい』
リディアとシリルの自宅。マーティンが帰っていったその日の夜。リディアはシリルの部屋に来て、じゅうたんの上で横座りしてくつろいでいる。
『ねえねえ、すごいの私。さっき、すごいところまで数えちゃった』
『数えたって、何を』
シリルはベッドの上に座り、羽毛布団を膝まで掛け、頬杖をついてたずねる。リディアは自信満々に答えてみせた。
『羊の数。26万9872匹まで数えて、でも結局諦めてこっちに来た』
『んなアホな。そこまで数えきる前に死んでるわ、普通。こっちで寝るなら、はい、きちんとお布団にお入りになってくださいね?』
『じゃそうする』
リディアはパジャマの皺を伸ばし、足の裏に汚れがついていないかをチェックして布団に飛び込んだ。シリルはリディアのパジャマの前ボタンを2つ3つ留め直して【説教】をする。
『お前もときどき、ハンナ並みに手がかかるのな。いいですか、パジャマもブラウスも、ボタンは上まできちんと留めましょうね。はい、今日はこれでおやすみ』
リディアは羽根枕を抱えながらシリルに言った。
『ね、私今日、やっぱりマーティンさんに良くないこと言っちゃったよね?』
『まだ気にしてるのか』
『うん。だって私自身、昔あなたに言ったじゃない?私の何がわかるのよ、何も知らないくせに!って』
シリルは当時のことを思い出して、懐かしそうにつぶやいた。
『ああ。そういえばそんなこともあったか。俺の腕に噛みついてきてくれて、ありがとう。狂犬病にかかるかと思ってマジで戦慄を覚えたわ』
『もう。犬じゃなくて小鹿とでもおっしゃってくださらない?』
『鹿もあの出っ歯で噛みつかれたら生き地獄だろうな、たぶん。まあさ、あいつなら大丈夫だよ。別になにがしかの根拠があるってわけでもないけど』
シリルはベッド脇の灯りを消そうとする。するとリディアはシリルの目を真っ直ぐに見つめて謝罪した。
『ごめんなさい』
『何、突然』
シリルは灯りに伸ばしかけた手を止めてたずねる。リディアはときどきこうやって、予期せぬタイミングで話題を変えることがある。マーカスやハンナに変わるときの目まぐるしさほどではないけれど、不意を突かれることに変わりはない。リディアはちょっとばかり遠慮がちに言った。
『私、自分でも気づかないところで、あなたにもイヤな、余計なことを言ってきたのかな。あなたのご両親のこと何も知らないのに。だから、ごめんね』
シリルは安心して笑った。そしてリディアの肩に腕を回して言った。
『気にするな。さて、そんなお前に絵本を読んでやりたいところだけど、古本は全部さばいてしまったからな。そうだな、例えばこういう話はどうだ?……昔、とある町に、レストランを経営している熊さんがいました。ある日、熊さんがキッチンで料理を作っていると、鍋に入っていたスープから緑色の豆が飛び出してきて、熊さんの鼻の穴にスポッとはまってしまい……』
リディアはシリルの腕を叩いて笑った。
『もう!想像してますます眠れなくなるじゃない。羊の数、50万匹まで到達したら、あなたいったいどうしてくれるの?』