2021.05.21 散文詩:楽屋にて

「今夜の舞台後に楽屋でお会いできますことよ、」と彼女は言った、「手ぶらでよろしくってよ」と。そう言われてもさすがにそうですかと手ぶらで行くわけにもいかない。僕は考えあぐねた結果、ブーケの花束ひとつ、それからケーキとビスケットの詰め合わせを持って彼女のもとを訪れた。22時45分頃だったかと記憶している。楽屋前の階段では奇妙なまでに背の低い道化師の男とすれ違った。男は物珍しそうな顔をして、僕をジロジロ眺めながらギシギシいう階段を降りていった。鏡台前のスツールに腰掛けて化粧を落としていた彼女は、鏡に映り込んだ僕の姿を見てくるりと振り返った。「お待ちしておりましたのよ、」彼女は長い黒髪をほどきながら微笑んでそう言った、「素敵なジャケットね。舞台上でずっとそう思ってたの」。「僕の姿が見えましたか、」僕はぴりりと緊張し背筋を伸ばして言った、「大したものではないのですが、今日はエリンさんに菓子折と花束を」。彼女は口角を上げた。「あらやだ、わざわざ嬉しいことをしてくれるのね。でも私、お菓子よりももっと欲しいものがあるの」。「それはいったい何ですか」と、僕はたずねた。彼女はすっと立ち上がると、コバルトブルーの瞳をぎらつかせ、長い爪の生え揃った指先で僕の蝶ネクタイをつまんだ。にじり寄る彼女の胸元からは粉っぽい香水の匂いが立ちのぼり、僕が一度小さく咳き込むと彼女は笑って大きく口を開け、上下揃って4本の牙を僕に向けた。

 

3日後の夕刊の一面記事にはこう記されてあった、舞台女優のエリン・マーガレット・ジョンストン(47)を殺人容疑で逮捕、自身の楽屋で待ち合わせた客の男性(36)の頸動脈を噛み切って殺害、他にも数十件の余罪があると見られ現在当局が捜査中、と。